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同人誌見本
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ふたりが絶対しないこと
(2012/02/12)
25話以降。告白してきたバニーに対し「あたしより大切なモノをつくれたら付き合ってもいい」と答えた虎徹。しかし「じゃあ僕が虎徹さんの一番になれば問題ありませんね」とバーナビーは猛アプローチを開始。互いに譲れない一番合戦をする話です。
【R18/A92P/¥900】- 書店:とらのあなK-BOOKs快適本屋さん
一歩ホテルの外に出ると、冬の香りがツンと鼻に染みた。
十二月半ばでも、早朝ともなれば二月の寒さのように冷気が厚くないコートを着た体を突き刺した。口で呼吸をすると、真っ白な息がマフラーから漏れて眼鏡がかすかに曇る。
山の稜線を彩る、滲む朝焼け。
早朝の町は穏やかで、真夜中のひっそりとした様とはまた違う静けさが漂っていた。眠らない街とも呼ばれるシュテルンビルトとは、全然違う。
「虎徹さん……」
バーナビーは大切な名前をそっとマフラーへ預ける。そして湿ったマフラーを軽く唇に押しつけた。青年の艶やかな唇はカシミアの柔らかな感触に包まれる。
呼吸をする鼻の奥が、冷たい空気と感傷にツキンと痛んだ。不明瞭な視界は、なにも眼鏡が曇ってしまっているからではない。溢れそうになる感情を、バーナビーは必死で押さえていた。なんの変哲もない田舎町だ。
なんの変哲もない寒さだ。
なんの変哲もない朝焼けだ。
なのに、どうしてこんなにも心が震えるのだろう。
世界が美しいと感じる。だが、それ以上に。その美しいと感じた感動を伝えたいあなたがいない。それがこんなにも胸を締め付ける。
――ただ、隣にいるだけでいい。
それが一年近くかけて出した『僕』の結論。
一見『ただ隣にいる』ということは簡単に思えるだろうが、実際は難しいことをよく知っている。真っ白の未来は恐ろしかった。自分で選ぶということが、こんなにも不安だなんて。だが、選んだ。選んだからには、難しいけれどもここで立ち止まっているわけにはいかない。
感情を振り切るように、バーナビーは目的地へ足早に向かう。ここはシュテルンビルトから遠く離れた、こじんまりとした町だ。空港へ行くには、まずバス乗り場に向かわなければならない。所要時間約四時間という遠さが、町の田舎具合を如実に表していた。バーナビー・ブルックスJr.は今日、シュテルンビルトへ帰る。
十一ヶ月と少し。バーナビーは一人シュテルンビルトを離れ世界中をあてもなく彷徨った。自分はなにがしたいのか。生まれて初めて、自分の意志でこれからのことを考えた。
訪れた場所は、みななにかしら新しい発見があった。
息をのむような自然の景色に畏怖を覚え、先人の知恵が残した巨大建造物に胸を熱くした。
NEXTへの偏見が色濃い街、薄い街。たまたま人助けをして深く感謝されたり、逃げるように離れていかれたりもした。
NEXTというくくりに限らずただの人として、相対し歓迎されたり排他されたり、優しくされたり騙されたり喧嘩をふっかけられたり。人の中にいることで起こったことは、シュテルンビルトとなにも変わらない。どこにいても、なにもしないでいるときになにかしたいと思ったことは、結局いつもしていることだった。感情がわいたとき、口に出して伝えたくなった相手は、いつも隣にいてくれた相棒だった。
思い知る。
呼びかけて隣を見たときに、笑って応えてくれるあなたがいないという事実。
バーナビーが虎徹を好きだと認めたのは、ジェイク・マルチネスの一件だった。
『あたしを信じてくれるって、信じてたから』
彼女の、ほんのたった一言で、反発していた心がすとんと落ち着いた。
それまでは、どうしても虎徹に惹かれていく心を認められなかった。パートナーとなった相手がたまたま彼女だった。彼女は虎徹でなかったかもしれない。相棒という位置にいて親交を深められる相手であれば、虎徹ではない彼女に心を寄せたかもしれない。バーナビーは、始めそう考えて自身の感情を抑制しようとした。だが、信じていると言われて気付いたのだ。
彼女が虎徹でなかったら、なんて所詮思考実験。現実ではない。
そこに虎徹がいて、虎徹が踏み込んできて、虎徹が外へ連れ出した。
なによりの、事実。
そこにいた彼女は虎徹で、虎徹の行動でもって、結果バーナビーは虎徹に恋をした。もしもなんて、ない。起こったことが全てだ。
だいたい、好きになるという仮定自体よく考えたらおかしい。同じ行動をしたら全員を好きになるなんて実際に起こらなければ真偽を判断できないし、そんなことが実際に起こるなんてありえない。
虎徹を好きになった感情は特別でもなく平凡でもなく、それ以上もでも以下でもなく、偶然でもなく必然でもなく、バーナビーの感じたままの結果だ。バーナビーは虎徹への気持ちを秘したまま、共に引退するまでの約一年を共に過ごした。バーナビーが虎徹を好きでも、その逆はなかったからだ。彼女には愛する者がすでにいた。それでも、ただ隣にいることができれば、バーナビーはそれだけで幸せだった。彼女を困らせたくはなかったし、彼女元来の鈍さもあって――周囲の一部にはバレてしまっていたものの――虎徹はバーナビーの気持ちを最後まで知らずに引退していった。
引退するにあたって、告白するという選択肢もあった。けれどもバーナビーはそれを選ばなかった。
彼女を傷つけてしまった自分を、許せなかったからだ。
たとえ忘却が能力によって仕方ないものだったとしても、それでもバーナビーは許せなかった。一緒にいれさえすればいいという短絡的で刹那的でその場限りの臆病な感情が彼女を苦しめた。彼女の異変を苦悩を気遣いを、見逃した、分かってあげられなかった。
結果、虎徹を失うところだった。
彼女が生きていたのは奇跡といってもいい。意識が遠のきかけた虎徹を腕に抱いたあの絶望は、あまりにも重すぎた。
虎徹の能力が減退していて、もしかしたら避けられない可能性があるかもしれなかったことを知って引き金を引くのと、知らずに引き金を引くのとでは、まったく訳が違う。
バーナビーには、もし知っていたらそれでも引き金が引けたかどうかは、未だわからない。それでも、躊躇せず引けたと虎徹を信じると迷わず断言できるような心をもたなければ、虎徹に告白することをバーナビー自身が自身に許可できない。だから結局告白はしなかった。知ってなお、バーナビーが引き金を引ける人間ではなかったから、虎徹は能力が減退していることを伝えなかった。もしも死んでしまっても『知らなかったから』と逃げ道を残そうとした虎徹の優しさは、同時にバーナビーの未熟さだ。『知っていても、選んで引き金を引く』ことには、一切の逃げ道はない。
彼女の信頼に足る人間になれなかったことが、悔しくてたまらなかった。
そうして、バーナビーは今後の自身のありようを求めてシュテルンビルトを去った。ヒーローでもない復讐者でもないただのバーナビーとして、なにをしたいのか。
だが、訪れる先々で虎徹の存在が心から離れないことを実感した。やっきになって忘れようとすればするほど、虎徹を想う。時間がたつほどに、虎徹なしではいられない自身を自覚させられる。もともと、期限は両親の命日に合わせて一年と決めていた。その間、虎徹とは一度も連絡ととっていない。いや、一度だけ。シュテルンビルト時間で十月三十一日ももう終わりかという時分に、メールが一通届いて、それに震える手で一言礼を返信したくらいか。
虎徹は誕生日を祝う言葉以外、なにも伝えなかった。バーナビーはシュテルンビルトを遠く離れていた。虎徹がふたたびヒーローとして復帰していたことを知らなかった。
自身で設けた期日に差し迫り、まだなにも決まっていない、むしろ悪化してしまっていた焦燥に、打ちのめされながらのろのろと帰りの支度を始めて初めてネットでシュテルンビルトのニュースを調べたバーナビーは一昨日、ようやくそこで虎徹が二軍であってもヒーローに復帰したことを知った。奇跡をくれるのは、いつも彼女だ。
虎徹がヒーローに戻った。それを知っただけで、バーナビーの心はもう決まっていた。自分の願いは、虎徹の側にあること。たった一つ。それだけ。なぜなら、虎徹の――ワイルドタイガーの相棒は、バーナビー・ブルックスJr.なのだから!
不安と恐怖と迷いを抱えたまま、それでも青年は飛び出した。バーナビーはここよりもっと田舎の町からバスを乗り継いで、この町まできた。昼寝をしたバスはあっという間に空港のある街まで到着し、二度飛行機を乗り継いで、バーナビーは故郷に帰り着いた。
日付は変わっており、十二月二十四日の夜。ずっと留守にして置いた部屋に荷物を置いたバーナビーは、一目散に向かう場所があった。迷い、恐れ、不安。それらを抱いたままバーナビーは両親の前に膝を折る。
「ずっと来られなくてごめん。気持ちの整理がつかなくて。でも、今日は二人の命日だから」
この日までと決めていた。どんなに迷っていても、この日には必ず帰ろうと決めていた。はからずも目標だけが決まって覚悟は定まらないという情けない感情のまま、ようやく両親に挨拶する事となってしまったが、それも家族の前だからこそこうしてやってくることができた。
どうか、勇気を。
息子を見守って欲しい。
――そうして。墓石に積もった雪をかき分けて、墓標を読んだバーナビーは深い両親の愛にうち崩れた。
『あなたのことは、私たちがずっと守ってあげるからね』
『だから、おまえも人を守ってやれる、優しい子に育ってくれよ』思い出した、母と父の言葉。
迷いも恐れも不安も全てが吹き飛んだ。
背中を押される。
走り出す。
手を伸ばす。
あなたが人々を守るというなら、人々を守れるよう僕があなたを守ろう。
それが、僕があなたの側にある意味。

手を伸ばした先に、まるで新しくもう一度始まるように。
空からあなたは降ってきた。



ふたりが絶対しないこと。





試練はしょっぱなからやってきた。
虎徹とバディを再結成した翌日の夕方。仕事も終わり、駐車場で虎徹を発見したバーナビーは走り寄った。
「虎徹さん!? あの、今日僕となにも約束してないですよね?」
「うん、してないよ。なあに? あ、もしかして」
一緒に夕食でも食べたいのかと問われて、バーナビーは一瞬本来の目的を忘れそうになる。もちろんと答えようと開いた口から違うと発するのは心苦しい。「ええと、その、是非ご一緒させていただきたい」
「よし、じゃあいこー!」
ですが、僕が聞きたいのはそういうことではなく。
話を最後まで聞かず青年の腕をとって走りだそうとした女に、バーナビーは慌てて制止の声をかける。
「ま、待ってください虎徹さん!」
「バニーちゃん?」
虎徹は首をかしげた。もちろんバーナビーのほうが背が高いため、上目遣いである。
(かわいい)
バーナビーはときめいた。
(って、だからそうじゃなくて!)
バーナビーは頭を振った。
「どうして虎徹さんが僕のマンションの駐車場にいるんですか!?」
そう。二人がいるのはアポロンメディアの駐車場ではなく、バーナビーが以前から住んでいたマンションの駐車場だった。虎徹は確かに何度もここに車を停めているが、それはバーナビーの部屋に来るときで――指紋認証と共に駐車登録も申請済みだ――約束がなくても唐突にくることがあっても、それは今虎徹自身が否定したから、つまり、まさか、もし、かし、て、
「どうしてって」
とっくに答えはでているのに、その答えの衝撃を受け止めきれず取り乱すバーナビーへ、虎徹は晴れやかにトドメを刺した。
「あたしもここに住んでるからに決まってるでしょ」
「なんで!?」
間髪をいれず叫んだ青年の反応がよほど気に入ったのか、女はにやにやという形容詞がぴったりの笑顔で答えた。
「前住んでた家は完全に引き払っちゃったし、なにより顔バレしてるからって社のほうでセキュリティのしっかりしたところ用意するっていわれてさ。面割れ同士一緒にしといたほうが管理しやすいってことかねえ、同じ建物なのは。……そんなにびっくりした?」「しました」
呆けた顔で頷いたバーナビーの背を、気合いを入れるように虎徹は叩いた。痛い。
「ってわけで、よろしくな! あ、で、バニーちゃん夕食どうするの。一緒に食べるのでいいんだよね」
「一緒に食べます」
「よかった、実はサプライズでおまえんちで料理作って待ってようと思って買い物行ってたんだ。まさかこんなにバニーが早く帰ってくるとは思ってなかったよ。復帰したてだから今日一日ずっと忙しかったろ? あたしが帰るときまだ色々残ってたから、夕食作る時間あると思ってたんだけど」
買い物の時間しか結局かかっていない、バニーは相変わらず優秀だなと悔しげに言われて、ほんの少しだけバーナビーの溜飲が下がる。虎徹の策略にはまることなく帰宅できたことにバーナビーはほっとする。夕食なんか作って待っていられた日には、それこそどうなるか分かったものではない(主に自分の理性が)。「半分持ちますよ」
「ん、ありがと」
虎徹はスーパーの袋を片手で二つ持っていた。全部といっても彼女はきかないことを知っている。
駐車場から上がるエレベーターの中で鏡を見て、バーナビーは崩れそうになる表情を必死に取り繕った。
まるで、夫婦のようではないか。
『バーナビーおかえりなさい!』
帰宅して、エプロンをつけた虎徹が笑顔で出迎える想像をしたところで、タイミング良くエレベータが止まり到着のチャイムが鳴った。バーナビーは我に返る。
頭の中の虎徹の愛らしさは、現実に起こったら本当に理性がぶっ飛びそうなほどだった。残念に思う以上に、改めてサプライズを阻止できたのは僥倖だった。
(いけないいけない)
幸いにして、妄想を振り払うべく大きく頭を振ったバーナビーの姿は、先にエレベーターを降りた虎徹には目撃されることはなかった。「たっだいま〜」
勝手知ったるなんとやら。虎徹はバーナビーの部屋の玄関を家主よりも先に開けて入る。それを言うならお邪魔しますでしょう、そう突っ込むのも無駄だ。バーナビーはため息の変わりに同じくただいまと口にする。
「おかえりなさい」
とんだ不意打ちだ。虎徹がくるりと振り向き応えた。
その、笑顔に胸が詰まる。今更気付いた。そうだ、彼女も自分と再びこうしていられるようになったことが嬉しいのだ。虎徹も自分も、こうした帰宅の挨拶に無縁な生活を今まで送ってきた。
「ただいま」
今度ははっきりと、バーナビーは声に出して応えた。
それは、再びヒーローへ戻ったお互いへの感謝の言葉だった。

「お、うまいじゃんバニー」夕食はせっかくだから二人で作ろうということになった。フライパンを振るってぱらぱらと舞う炒飯を見て、隣で玉葱を炒めていた虎徹が褒める。
「これくらいしか、できませんけど」
「今まで全然料理できなかったのが一つでも作れるようになったってことは、十分すごいと思うぞ」
「できなかったんじゃなくて、やらなかったんです」
否定したものの、どう聞いても言い訳にしか聞こえない言葉にバーナビーは眉根を寄せた。
炒飯は虎徹がよく米を炊いて冷凍庫に余りをいれていたから、活用法として彼女に教えてもらった料理だ。適当に残った食材も突っ込めて簡単に作れる。
「そういえば、バニーが作った料理食べるの初めてだな」
「そうですね。ようやく虎徹さんに僕の炒飯を食べてもらうことができて嬉しいですよ」「まずいって言ったらどうするの」
「僕が作る料理がまずいはずありません、よっ」
「ひゅ〜、さっすが」
ひときわ大きくあおったフライパンから舞った炒飯を見て、虎徹はひやかした。
それからしばらく二人は無言で調理をする。調理器具と、炎に炙られた食材の音だけが耳に届く。言葉を交わさずともなんとも居心地のいい空間だった。
なにより、バーナビーは自分がこうして料理を楽しめていることが幸せだった。
バーナビーはあまり火が好きではない。といっても日常生活に支障がでるほど嫌っているわけではないが。火を見ると憂鬱な気分になる程度だ。だから料理も自分でするのはおっくうだった。食事は外食にしたりフロントに頼んだりすれば事足ることだった(バーナビーの住むマンションは、サービスアパートメントの豪華版だ。一流ホテルと同じようなサービスが住んでいるだけで受けられる)。だから、自分から進んで火を使って調理をしても心が軽いことが嬉しい。青年は上機嫌でフライパンを振るう。具材から水分は抜けた。最後に調味料で味付けをして完成だ。
「できました」
「お疲れー、あたしももうちょっとこれ煮込めばできちゃうから、先に盛りつけして。あと冷蔵庫にいれてたやつも出しておいてよ」
「はい」
すっかり台所の主になった虎徹から言われた通り、青年は炒飯を皿に移したり、冷蔵庫に入れていたサラダを出したりした。台所の主は今までバーナビーが炒飯を作っていたコンロで即席スープを調理し始める。
ものの十分もしないうちに、ダイニングテーブルには所狭しと料理が並べられた。
「いただきます」
「いただきます」
席に着くと、バーナビーも虎徹にならって手を合わせて頭を下げる。以前彼女から、命をいただくからこうして手を合わせて一言お礼を言ってから食事をするのだと聞いて以来、バーナビーも虎徹といるときはこうして手を合わせる。虎徹は真っ先にバーナビーの作った炒飯へ箸を伸ばすと、少し息を吹きかけて冷まし、口に入れた。
「どうですか」
「ん〜」
なにくわぬ顔で自分も食べ始めることはできなかった。目をつぶって大仰に味わう虎徹を、バーナビーは穴があくほど見つめる。
ごくりと飲み込んだ女の喉を見て青年も唾を飲み込んだ。
ぱちりと目が開き、琥珀色の瞳が碧い瞳を見つめ返す。緊張。
「うん」
虎徹の瞳が細められた。口角と頬が上がる。
「合格」
「やっ……あ、」
思わず叫んでしまいそうになって、慌ててバーナビーは口を押さえた。いけない。うかれすぎだ。
久しぶりに虎徹と会えて、二軍ではあるがバディとしてヒーローに復帰して、そして今ここで一緒にいて手料理を食べてもらえるという事実に、浮き足だって仕方ない。らしくない己の態度が表層化しそうになり、バーナビーは内心頭を抱えた。彼女の前では格好つけていたいのだ。「ふっふーん」
「なんですか」
虎徹が完全にゆるみきった表情でバーナビーを見た。駐車場のときのようにからかわれるのか。そう思った矢先、虎徹は弾む声で言った。
「また、こうしてバニーちゃんと一緒にいれて嬉しいな」
「僕も、嬉しいです」
「うん、頑張ろうねえ」
「はい、頑張りましょう」
バーナビーは顔を上げられない。ふいに泣きそうになって、塞ぐように炒飯を口に入れた。炒飯は美味しかった。

たわいない話をしながら食事をして後片付けをし、今日の夕食会は終了となった。
部屋に戻るという虎徹を彼女の玄関まで送ろうと、一緒にエレベータに乗り階を移動する。
「今日はありがとな」
「いいえ、こちらこそ」
ここが自分の部屋だと、並ぶ扉の中の一つを指し虎徹は礼を言った。「あ、そうだ」
ロックを解除した虎徹は、思い出したと振り返る。
「バニーも登録しといたから」
「なにをですか」
「あたしんちのロック。これでバニーちゃんも出入り自由だよ」
そっちの部屋だけこっちが出入り自由なんて不公平だろう、そう虎徹は明るく言い放った。
「これから朝ご飯一緒に食べよう? 七時に来て。そんでもしあたしが寝てたら起こしてちょーだい。実はいつも遅刻しそうになりながら出勤してるんだ。ゴールドからだと会社遠いんだよね」
「な、なに言ってるんですか!」
公共の廊下だというのに、バーナビーは思わず叫んでいた。はっとして左右を見るが、さいわい人はいない。
「あ、やっぱ目覚まし扱いじゃ怒るよね。ごめん」虎徹は謝罪したが、まったくもって見当違いの理由だ。バーナビーはなんと答えようか悩む。
今までバーナビーの部屋に虎徹は自由に出入りできても逆は無かった。ブロンズの彼女の家に、バーナビーは一度しか訪れたことがない。一年前、引っ越しの片付けを手伝いに行ったときだ。部屋はほとんど片付いていたので、強引な口実をつけて来てしまったとバーナビーは後悔したが、虎徹は追い返さなかった。どころか、いくつかの箱を荷解くと昔の話をしてくれた。
マンスリーヒーローのバックナンバー。デビューしたときや、QOHになったときの記念インタビューが載っていた。故郷オリエンタルタウンの写真、卒業アルバム。母、兄、そして亡くなった父や夫といった家族の写真。子供である楓以外の虎徹の家族を見るのは初めてだった。それらを見せながら、楽しかったことも辛かったことも、虎徹はバーナビーに聞かせた。あまり自身の話を積極的にする人間ではなかっただけに、バーナビーは悲しかった。もうすぐ別れてしまうバーナビーに残る、虎徹という思い出を重くするだけの儀式にすぎない。
酷いひとだ。もう一緒にはいられないことがわかってから、安心して貴方は自分の領域を解放した。もう一緒にいらないから、忘れてしまわないよう過去でもって虎徹という人間をこちらの記憶に刻みつける。
無自覚なだけに余計たちが悪い。
そういう意味であなたはとんだ悪女だと、わかってもなお好きでいる自分は大馬鹿だと、バーナビーは自嘲した。
『いつでもうちに来なよ。歓迎するからさ』別れ際の言葉は本心に違いなかっただけに、胸に刺さった。彼女からは、会いに来てくれない。
一年前そんなやりとりをしていただけに、バーナビーはガラッっと変わった虎徹の対応に、どうしていいかわからない。非常に喜ばしい要請ではあるが、果たして受けてもよいのか。
彼女のことだから、本当に目覚まし代わりなのかもしれない。いや絶対そうだ。そうだとわかっていながら、悲しいかな惚れたさがで他意がないのか気になって仕方がない。虎徹が以前よりこちらに心を預けてくれた結果なのか。だとしたら逃す手はない。
なんだ。馬鹿だな、よく考えたらどっちにしたって受ける結果にしかならなかったではないか。
「まったく。本当に仕方のない人ですね。わかりました、朝食を作っていただくことに免じて目覚まし役、お引き受けいたしましょう」嫌みったらしく慇懃に答えたにも関わらず、虎徹はぱっと表情を輝かせた。
「ほんと!? きゃー、やったあありがとうバニーちゃん! これで遅刻しなくてすむ!」
抱きつかれて急上昇した青年のボルテージは、女の後半の言葉で本当に目覚まし代わりであることが判明し、一気にマイナスになった。


翌朝。バーナビーは七時きっかりに虎徹の部屋のチャイムを鳴らした。しかし待てど暮らせど部屋の主が扉を開ける気配はない。
「ま、わかってたことですけどね」
バーナビーは嘆息するとロックを解除し入室する。
虎徹の部屋の間取りは全く異なっていた。バーナビーのような開放的かつ殺風景な造りとは違い、普通の家のようになっている。廊下に並ぶ扉を一つ一つ開け、主寝室を探す。リビングには見覚えのあるソファやオーディオが配置されており、家具はそのまま持ってきたことが知れた。
バス、トイレ、ランドリー、キッチン、リビング、ここまで全て外れた。残るは廊下の最も奥の扉だけだ。
「虎徹さん、起きて下さい。遅刻しますよ」
ノックをして声をかけても全く反応がない。
「虎徹さん? 虎徹さん!」
先ほどより大きな声で呼びかける。しかし建物柄、高い防音性が部屋の中まで徹底されていることを思い出し、バーナビーは頭を抱えた。ドアを叩きまくるより、直接中に入って寝具を引っ剥がし、ベッドから引きずり出すほうが手っ取り早い。
そう、わかっている。わかっているが、できない。意中の女性が眠っている部屋へ入るなんて。しかしここで考えていても虎徹は起きないし、そうすれば悠長に朝食など食べてる暇もなくなるし、遅刻してしまう。
青年は深呼吸すると、己を鼓舞するように勢いよく扉を開けた。薄暗い寝室をずかずかと横切り、思い切りよくカーテンを開け容赦なく日光を浴びせる。
「虎徹さん起きてくださ――っ!」
振り返り、寝具をはぎ取ろうとしたバーナビーは硬直した。
「う〜、眩しい〜」
虎徹は悩ましい声と共に寝具を頭に被せ、反対側へ寝返りを打つ。すると、それまで隠れていた下半身が白い朝日のもとに照らされた。
腰からヒップ、太股にかけて見事な逆S字カーブが描かれ、真っ白な膝の裏と足の裏が日光に輝く。めくれたシャツからはネイビーのショーツがくっきりと存在を主張していた。情けなくもバーナビーはその場にしゃがみ込む。
むっちりとした臀部を際立たせるような濃い色合いのショーツ、対照的な細い腰、すらりと伸びる脚はアラフォーとは思えない。ゆるく曲げられて華奢な骨の浮く膝の裏は腋下をも連想させ、艶めかしさが倍になる。ほんの一瞬見ただけであるのに、足の裏のほくろまで発見してしまった己の慧眼に涙が出そうだ。
こんなものを不意に見せつけられれば、男がこうなってしまうことは仕方ないと言い訳しても、やはりやるせなさは拭えない。
だが、もしも今虎徹が目覚めて自分を見たら――。
自身の恐ろしい想像で、青年は途端に萎えた。
今だ。
「虎徹さん!!」
「あうっ」
バーナビーは立ち上がると、虎徹の顔から身体を隠すように寝具をめくりずらした。何事かとこちらを向き、眉根を寄せながらもしぶしぶと目を開けた女の瞳が、とろりとした視線でもって青年を捉えた。寝起きの虎徹を愛でる余裕などなく、バーナビーは蠱惑的な琥珀色の視線から顔を反らす。「あー……バニーちゃんおはよう?」
始め、なぜここにバーナビーがという怪訝な表情をしていた虎徹であったが、昨日のやり取りを思い出して挨拶をしてきた。
「おはようじゃありませんよ、まったく。ここまで寝汚いとは思いもしませんでした。さ、早く起きて支度してください。ゆっくり朝食作って食べてるなんて時間、もうありませんよ!」
いつもならば非があろうともなじられれば言い返す虎徹が、おとなしく謝罪した。寝起きだからだろうか。
「う〜、ごめん」
女はのろのろと上半身を起こすと、そのまま前にぼすりと頭を投げ出して突っ伏す。
「うぇ〜、頭痛い」
「まさか二日酔いなんていいませんよね」
「えへへ〜、まさかの大当たり」腕だけ上げてピースした虎徹に、バーナビーはこれみよがしにため息をつく。
「ごめんて。久しぶりにバニーちゃんとご飯食べられて、嬉しくて、興奮して、寝れなくてさあ」
言い訳の言葉に、バーナビーは少しだけ頬を緩ませてしまう。虎徹は突っ伏しているので見られる心配はないが、このままほだされるわけにはいかない。
「フロントに言って薬と食事を用意してもらいます。いいですか、その間に支度して下さい。今日は僕の車で送ります」
「ありがと〜、や〜んもうバニーちゃん大好きー!」
バーナビーの怒気をはらんだ言葉に、虎徹は起きあがると上機嫌で答えた。だめだ、全然反省してない。
「うわ、ベッドから出るのは僕が部屋から出た後にしてください!!」「あ、ごめん」
もう少しきつく言ってやろうと開けた口は、虎徹が無頓着にも寝台から出ようと寝具をめくったことにより、悲鳴を上げることとなった。
青年は逃げるように寝室を後にすると、リビングから内線でフロントへ繋ぎ、朝食と薬の用意を大至急手配した。乱れる心を落ち着かせるため、とりあえず気を逸らす目的でテレビをつける。丁度ついた朝のニュースは、一昨日バーナビーがヒーローに復帰したことを伝えていた。街頭インタビューで口々にバーナビーの復帰を喜ぶファンの声を聞きながら、バーナビーはヒーローに復帰したことを歓迎してくれる人々に感謝した。HERO TV以外でヒーローの報道はあまり多くない。つまりそれだけ話題性があったということだ。バーナビーは改めて己のヒーローとしての仕事に誇りを持った。二軍であろうとも、関係ない。彼らの期待を裏切らぬよう頑張らなければ。そうして十数分ニュースを見ていると、来客を知らせるチャイムが鳴る。頼んでいた朝食が届いたのだ。受け取って振り返ると、ちょうど支度を終えたらしい虎徹が廊下に現れた。
「それじゃ、行きますよおばさん」
「はあ〜い」
おばさんと言われたことが気に入らなかったのだろう、虎徹は不機嫌そうに返事をする。しかし己が悪いことはわかっているため、文句は言わない。
バーナビーはいったんリビングに戻りテレビを消すと、虎徹と共に地下の駐車場へ向かった。
助手席の虎徹へ朝食と薬を預け、エンジンをかける。
「先に薬を飲んで休んでいてください。朝食はデスクでとりましょう」
「うん、ありがとう」
今の時間ならいつもより少し会社につく。バーナビーは丁寧にハンドルをきり出発した。会社に到着した頃には、虎徹は朝食を食べられる程度に回復していた。ぬるくなったリゾットを平らげ、会社のドリンクサーバーからバーナビーが持ってきた緑茶を飲みまったりしている。
「今朝はありがとね」
「どういたしまして。ですが、」
「次からちゃんと起きるから、明日も来てね」
バーナビーの言葉を遮り、虎徹は言った。
「バニーちゃんが起こしてくれるから大丈夫だって、油断しちゃって二度寝したのと、お酒飲み過ぎちゃったのが敗因なわけで、つまり原因わかったからもう大丈夫」
「大丈夫って……どうしてそう根拠のない自信を堂々と語れるんですか」
原因がわかろうが、虎徹が明日きちんと起きてくる保証はない。温かみの一切ない物言いに、虎徹はすがるように食い下がる。「ごめん、ほんとごめんて。反省したから! とにかく自分一人の為じゃなかったら絶対起きるから、ご飯つくらなきゃって思うから、明日からは起きて待ってるから」
虎徹は胸の前で手を組み、打ち捨てられた小動物のようにこちらを見上げてきた。
「バニーちゃん」
「……」
「バニーちゃんお願い」
「……」
「ね、このとーり」
とうとう拝みだした虎徹に、バーナビーは根負けした。こちらがいくら断ろうが、こうなってしまった彼女が諦めることはない。
「二度目はありませんよ」
「バニーちゃんありがとう!!」
小動物のようにぷるぷると泣きべそをかいていた表情は、その言葉で満面の笑みになる。困ったことに、この笑顔に弱いのだ。バーナビーは無表情を保つためモニタに視線を移す。虎徹は満足したのか、それ以上なにも言ってこない。ちょうど同室の経理の女史が出勤してこともあるだろう。そのまま始業時間になって二人は部長室へ呼ばれた。「新年の特番で、バディ特集組んでもらえることになったから」
「あたしたち二軍ですよ?」
ロイズの言葉に驚いた虎徹はもっともなことを言う。
「君たちバディの存在が、それだけ大きかったってこと。二軍であろうと関係なーいーの。よろしく頼むよ」
「はい、わかりました」
はきはきと答えたのはバーナビーだけだ。虎徹はまだ納得のいかない顔をしている。二軍になり、こうした芸能活動的なことをしなくてもよくなったと思っていただけに、彼女は不満なのだろう。そういった活動のなかった二軍のほうが、ある意味まっすぐに市民を守ることができていたのだから。
「他にも雑誌のインタビューに、グラビア撮影、ラジオ出演、年明けから一気に来るから覚悟しておくんだよ」「ええー、今までと変わんないじゃないですかぁ」
虎徹はあからさまな不満の声をあげる。
「今まで逃げ回ってきたツケだよ。覚悟決めて、我が社と市民のために頑張ってくれたまえ」
「逃げ回ってきた?」
ロイズの言葉に、バーナビーはまさかと虎徹を見る。バツが悪そうに虎徹は視線を外したので、代わりにロイズが答えた。
「そ。バーナビー君が復帰する前から、ワイルドタイガーは二軍だろうと取材の申し込みとか沢山あったの。それを『二軍だからこそ陰でヒーローを支え市民を守らなければ』とかなんとかもっともらしいこと言っちゃって、全部断ったんだよ」
「もっともらしいって、事実その通りじゃないですか。二軍が一軍のヒーロー差し置いてどうするんです」腕を組み、憤慨する虎徹をバーナビーは複雑な心境で眺める。ブランクがあろうと虎徹の、ワイルドタイガーの人気が続いていたことは喜ばしいことだったが、自分が隣にいないことに嫉妬めいた感情が生まれる。
「しかもアイパッチとれだなんて、確かに顔バレしちゃってますけど、あたしは顔出ししない主義なんです」
「それは過去の話でしょ。別に今はもう取れなんて強要しないから」
アイパッチの件を聞き、青年は一層その想いを強くした。
バーナビーはシュテルンビルトへ戻る前に、復帰したワイルドタイガーのことはちゃんと調べてある。それも公式記録ではなくネットの深いところ――市民の噂や憶測、スポンサー企業の動向についてだ。
アポロンメディアやHERO TVは否定しているが、サマンサ・テイラー殺害冤罪で犯人に仕立て上げられた女性の顔と、マーベリック逮捕時に映ったワイルドタイガーの素顔が不鮮明ながらも似ていたため、同一人物ではないかとの指摘がある。映像の解析をかけて画質修正を行った画像が出回り、それらが骨格的にも一致したことからもはや公然の秘密となってしまっているが、能力が減退しヒーローを引退したことで市民の関心は若干薄れた。彼女の子供である楓もテレビに映ったため、万が一を考えてアポロンメディア社は極秘裏にオリエンタルタウンへボディーガードを派遣している。
そんな中、ワイルドタイガーは再び舞い戻った。ワイルドタイガーはスポンサーの求めに反し、世間的にバレていようが今まで通り顔出ししないことを貫いたため、公式見解は未だに鏑木・T・虎徹 イコール ワイルドタイガーとはなっていない。
『ヒーローは素顔を隠すもの』
ワイルドタイガーの素顔が魅力的だっただけに、彼女の変わらぬ主義に市民は好感を持ち、結果逆に大きな話題となった。スポンサーも、そんなわけで二軍ながら異例にも出資し、彼女のスーツは一年前と変わらず企業ロゴがついたままだ。
「こういう仕事が絶対増えるから顔出しはヤダって言ったのに、結局変わらないなんて」
虎徹はがっくりと肩を落とす。
ここですごいのが、顔を出す イコール ヒーローらしくない仕事が増えるという彼女の構図だ。自分の容姿に対する考えがまったく介在していない。
確かに、虎徹は絶世の美女というわけではない。だがその表情は、プロボーションとヒーローとしての姿勢を掛け合わせると三乗にも魅力が倍増する。
顔を出す=見目がいい=ヒーローらしくない仕事が増える
真ん中の理解がすっぱり抜けている。
彼女にとってヒーローとして人気が出ることは嬉しいが、それによってアイドル扱いされことは極力避けたいらしい。『キレイな格好させてもらったって、見せたい相手がいないんじゃね』
まだバディを組んだばかりのころ初めて一緒に撮影へおもむいたとき、虎徹が自嘲ぎみに呟いていた台詞をバーナビーは思い出した。独り言だったし、まさか虎徹もバーナビーに聞かれていたとは思ってもいなかっただろう。いつも明るい虎徹の言動らしくないところに引っかかりを感じて、バーナビーは覚えていた。
その、寂しげだった様子と今の様子が被った。がっかりする虎徹へ、バーナビーはさりげなく肩に手を置く。
「大丈夫です。僕が隣にいますから、」
「バニーちゃん……」
「誰も虎徹さんには目もくれませんよ」
「あははは、そういうところホンット変わってないよねバニーちゃんは」虎徹は乾いた笑いでバーナビーの手を払いのけた。
違う、本当はそんなことを言いたかったんじゃない。
怖じ気付いて逃げてしまった自分の言動に、バーナビーは内心打ちひしがれる。
『僕は虎徹さんがお洒落してる姿、好きですよ』
そう言ったら彼女はどう反応しただろう。笑って冗談はやめろと笑い飛ばしてしまうのだろうか。
「とにかく、よろしくお願いするからね」
ロイズの言葉で、バーナビーは思考を浮上させる。
「はい」
「はぁい」
企画書はメールに添付しておいたから、ちゃんと虎徹君にも読ませておくようにとロイズから言い渡され、バーナビーは苦笑しながら了解する。
「はー、もうやんなっちゃう」
席に戻った虎徹はデスクに突っ伏す。バーナビーは企画書を読ませようとその気にさせるために声をかけた。「これもヒーローとしての勤めです」
「えー、でもあたしたち二軍なんだよお?」
「だからこそですよ。僕達の活動いかんによって、二軍ヒーロー達の扱いがどう転んだっておかしくない。後輩達の為に、彼らが脚光を浴びる機会や一軍へ昇る道もきちんと整備しなければ」
「……バニーちゃんは、一軍へ戻りたいの?」
鋭い問いにバーナビーは息を飲む、虎徹は未だ顔を伏せているため、表情はわからない。
「考えたことも、ありませんでした」
とっさに答えた台詞が我ながら情けない。しかし、考えたこともなかったのは事実だ。
常識的に考えて、ワイルドタイガーが再び一軍へ復帰することはないだろう。だが、バーナビーは。
もし――もしも自分だけ一軍へ復帰しないかと誘いがきたら。バーナビーはどうしていいかわからない。己の望みは彼女の隣にあること。
だが、彼女は言うだろう。
『バニーちゃんよかったね。一軍復帰おめでとう』
虎徹は絶対に、バーナビーが一軍復帰を断ることを許さない。彼女はヒーローなのだ。
「さ、早く面を上げて。企画書ちゃんと読んでくださいよ」
「はいはい」
バーナビーは暗くなっていく思考を締め出し、虎徹を再び鼓舞する。のろのろと起き上がりマウスに手を伸ばした虎徹を確認し、バーナビーも添付ファイルを開いて企画書に目を通した。
「うげ、早速今日の午後から衣装合わせある」
「新年の特番ですからね。もう時間がない、仕方ないでしょう」
「ブルーローズでもないのに、あたしなんかが着飾ってどーするっての」
「楓ちゃんが喜ぶと思いますよ。自分の母親がきれいなのは、子供も嬉しいでしょう」「あー、そ、そっかな」
でもあの子あたしの写真なんか丸無視で、バニーちゃんのだけスクラップしてたんだぜー。
一瞬まんざらでもなさそうな表情をみせた虎徹だったが、すぐに苦い思いでに顔をしかめる。
「もう、正体は知っていますし大丈夫でしょう」
「そうだといいんだけど」
言って、虎徹は再びモニタへ視線を戻した。結局、今回もバーナビーは自分の想いを言えなかった。今更気付いたのだが、虎徹が装う姿自体は好きでも、それが万人の目に晒されるためであることが引っかかっているのかもしれない。臆病のほうがマシだ。醜い嫉妬心に反吐が出る。
彼女は自分のモノではない。ヒーローである限り誰のモノにもならない、等しく皆のモノだ。例外は家族だけ。バーナビーはそのどれにも属さない。バディとして、隣にいられるモノとして、虎徹に守られる存在ではなくなる道を選択した。皆のモノという皆からすら外れる代償は、始めからわかっていたはずだ。だから嫉妬などしてはいけない。望んではならない。
言い聞かせて、バーナビーは企画書を無心で読み込んだ。


§   §   §


高い天井からきらぎらしい明かりを灯したシャンデリアがいくつも垂れ下がり、人々の豪奢な装いと料理を照らしていた。
今晩はシュテルンビルドのヒーローを抱える主だった企業が一同に会する新年会。企業関係社を除いて集った紳士淑女はいずれも政界や財界の有名人ばかり。愛想笑いの仮面で、相手の情報や弱みを掴もうと狡猾な本性を覆っている。
「虎徹さん」そんななか、一人もくもくと料理を食べ続ける女性にバーナビーは声をかけた。
「あ、バニーちゃん! ね、ね、このローストビーフ食べた? すっごくおいしいよ」
「まったく、挨拶全部僕に押し付けないでくださいよ」
誰のせいで食事すらままならないと思っているのかと、青年は頬をローストビーフでふくらませた女をにらむ。
「だあってー、あたしああいう堅苦しいの苦手。っていうかあたしなんかよりバニーちゃんと話したいだろうし。適材適所ってやつ?」
「せめて、他のヒーローに声をかけてきたらどうです」
「それはもうした。ローストビーフはアントニオが教えてくれた」
「そうですか」
屈託なく笑う虎徹に、バーナビーはもはや怒る気すら失せた。ドラゴンキッドでもあるまいし、こんなに食欲を旺盛に発揮している人間へ、下心のある人間が話しかけるはずもない。虎徹のドレスは今回も例に漏れず露出過多だった。開いた背中と谷間、深いスリッド。飾り気のない繊細なドレープのみのドレスは、むしろ艶めかしく女性の肉体美を流れ虎徹の美を引き立てていた。アイパッチを着用しているため、普段と見違えるような姿であっても、誰もが彼女がワイルドタイガーであるとわかる。タチが悪い。
パーティー開始直後、悪い虫ばかりが彼女にたかったため率先して話し相手を引き受けていたが、その間に虎徹はまんまと逃げおおせ他のヒーローと楽しく話をしてきたようだ。腹が立ったが、いい年をしてこんな食い気がっつり頬を食べ物で膨らませた相手に食い下がるような男もいなかったようである。
「じゃあ、僕も他のヒーロー方へ挨拶しに行ってきます。三十分くらいで戻りますので、ここ離れないでくださいよ」「はーい、いってらっしゃい」
酒も入っているだろう、手を振り上機嫌で女は青年を送り出す。
しかし、約束の時間になってもバーナビーは虎徹の元へ戻ることができずにいた。馴染みの彼等はバーナビーの復帰を喜び歓迎の挨拶をしてくれたが、ヒーロー以外の人間もまた同じくバーナビーと話そうとひっきりなしに現れる。
バーナビーはなるべく失礼にならないよう、次のヒーローのもとへ行きたいとほのめかし逃走をはかってきたが、それでもやっと虎徹がいた場所へ戻ってくるのに一時間以上かかってしまった。パーティーもそろそろお開きの時間だ。
「バニーちゃん遅い!」
「すみません」
腰に手を当て、ぷりぷりと怒る虎徹にバーナビーは深く頭を下げる。「すみませんで済めばヒーローなんていらないもん」
ろれつの回らない口調でとんだ屁理屈を口にした虎徹は、すっかりできあがっていた。真っ赤になった皮膚とふらふらする姿勢が、相当アルコールを摂取したことを物語っている。飲み過ぎだと文句を言うこともできない。バーナビーは丁度近くを通ったボーイから水をもらうと、虎徹に差し出す。
「端の椅子があるところへ行きましょう」
「だめ、バニーちゃんまだローストビーフ食べてない」
「と言われても、もう料理ほとんどないですよ」
「一切れだけ、あたしがそこに取り分けておいたから、それ食べて」
「ありがとうございます」
食べなければ、虎徹は水を受け取ってくれないだろう。青年は大人しく彼女が指さした先の皿を取り上げる。そこにはローストビーフだけでなく、他にいくつか料理が乗っていた。すっかり冷めてしまい、虎徹がすごく美味しいと誉めたような味はしなかった。彼女はきっと、これを食べたバーナビーが同じように美味しいと賛同し、笑顔になることを望んだのだに違いない。後悔の念が青年の胸を焼いた。「ごちそうさまでした」
食べ終わった自身へ注がれた視線に気付いて、バーナビーは言った。案の定、美味しかったかと虎徹は聞いてこない。おそらく約束の時間に戻ってきていれば、バーナビーも満面の笑みで美味しかったと答えることができた。虎徹も、それを見て嬉しいと笑ってくれるはずだった。
「美味しいビーフストロガノフをだしてくれるお店があるんです。今度、一緒に行きませんか」
「……うん」
頷いてくれた虎徹に、怒りの色はない。しごく残念だったとしおれる表情がバーナビーの心を突いた。
差し出された水を今度は大人しく受け取ると、青年にエスコートされ女は端の椅子に座る。だが、座って膝の上に両手で持ったコップを見つめるだけで、虎徹は水を飲もうとはしない。「虎徹さ、危ない!」
怪訝に思って声をかけたとき、女の身体が傾いだ。とっさに虎徹を抱きしめ、コップを掴む。割れずに済んだが、中身がドレスにかかった。
虎徹さん、どうしたんですか。
そう言おうとして見た虎徹は、眠っていた。

一足早くパーティーを辞し、バーナビーは眠った虎徹を車でマンションまで運んだ。彼女の部屋のリビングのソファに横たえて、さてこれからどうしたものかと青年は悩む。
「虎徹さん、起きてください。このまま寝たら明日は二日酔い確定ですよ」
「う〜ん」
苦しそうに唸って一瞬目を開けるが、それは邪魔者を確認するためだったようだ。女は青年の腕をうるさそうに払った。
勘弁して欲しい。
バーナビーは初めて虎徹の部屋に来たときのことを思い出した。今の状況は酷似している。ソファに投げ出された虎徹の身体は、ドレスをまとっているだけにまるで一枚の絵画のようだ。
処置が甘かったのか思った以上にこぼれていたのか、ドレスの胸元から膝までが濡れて肢体にくっついている。薄い生地のため、肌の色がほんのりと透けており卑猥だった。
虎徹はけだるげな表情で額に手を当てている。
火照った肌。薄く開いた唇は浅い呼吸に喘ぐ。なんともあだめいた様子に、バーナビーは知らず喉を鳴らしていた。
普段は化粧が薄いだけに、ふっくらとグロスを盛られ赤く色づいた唇が青年を誘う。
キスをしたい。
衝動に突き動かされて、バーナビーはそっと顔を近づける。酒は飲んでいないのに、早鐘を打つ鼓動が耳の奥を騒がせる。
あと三センチ。あと二センチ。
あと、一センチ。
「虎徹さん、起きてください」
「いったあ!?」
バーナビーは、容赦ないデコピンを虎徹に浴びせた。効果は絶大だったようで、女は飛び起きる。
「水を飲んで、着替えてください。風邪を引く」
「う〜、バニーちゃんもっと優しく起こしてよ」
「会場で眠ったあなたを、僕がどれだけ恥ずかしい思いをしてここに連れてきたと思ってるんです! 酔いつぶれて寝こけるなんて、とんだヒーローもいたものですね」
「うぐっ」
痛いところをつかれ虎徹は黙った。返す言葉もない。
「十五分したら戻ります。それまでに着替えておいてください。二度寝したら今度はデコピンじゃすみませんよ」
「はぁい……」
肩をいからせバーナビーは退出する。そして、自分の部屋に戻ってきた青年は玄関を閉めるとそのままずるずると背中を扉伝いに引きずり座り込んだ。危なかった。
あやうく本当にキスしてしまいそうだった。ぎりぎりで思いとどまることができて、本当によかった。
再び虎徹とバディを組んでから、このように忍耐を強いられることが多すぎる気がする。最大の原因は部屋の出入りが自由であることだが、なにより、気のせいでなければ虎徹が警戒をしていないことが根本的な発生源だ。
たとえ部屋が出入り自由だろうが、彼女が一般的な女性として気をつけて振る舞っていればこんなことにはならない。
虎徹はあけっぴろな性格であるから、一見女性であることに頓着しているようには見えないかもしれない。だがずっと一緒にいたバーナビーは、虎徹がそんな女性でないことを知っている。虎徹は、自身へ向けられる下心には意外なほど敏感だ。それに相手の領域にはずかずか入り込むが、滅多なことでは逆をさせない。つまり、今のバーナビーにとって虎徹は、気は許されているが男としては見られていない。
導き出された結論に、バーナビーは抉られるような衝撃を受けた。青年は膝を抱えて体育座りになる。
(別に、意識して欲しい訳じゃないけど。でも男としてのプライドは傷つく……)
いや、そんなことより。これが続けば間違いなく間違いが起こる。バーナビーは己の理性に自信を持っていたが、それも先ほどキスしそうになったことで木っ端微塵となった。
手を打たねばならない。
もしも、次に二人きりのときであまりにも無防備な体を晒したら、大きく釘を刺そう。
バーナビーは決意すると起き上がって、スーツから着替えるために寝室へ向かった。

二十分後、少し遅れてしまったがバーナビーは再び虎徹の部屋へ戻ってきた。虎徹はティーシャツにハーフパンツと、まだ見られる服装に着替えてくれたが、それでも仕事の同僚相手にしていい格好ではない。
(まだ、一昨年市長の息子を預かったときは服を着ていた方だった)
あのときはシャツとスカートは身につけたままだったが、胸元までボタンは大きく開いてるしストッキングまで脱ぐしで、バーナビーは驚いたものだった。
「バニーちゃんおかえり」
「薬と、あと利尿作用の高いお茶をもらってきました、これを飲んでアルコールを出したらさっさと寝てください。明日来たとき起きてなかったら、もう来ませんよ」
「ありがとう」
バーナビーはフロントに連絡して手配させたそれを渡すと、そそくさと虎徹の部屋を後にした。虎徹が、まだ一緒にいたいような目で見てきたが、それは無視した。




「ちょっと! バニーちゃんどういうつもりなわけ!?」
事件が解決し、トランスポーターに戻ると虎徹がメットをかなぐり捨てて詰め寄ってきた。
「どうもこうもありません。虎徹さんができないことを僕がした。適材適所。それだけです」
先の出動で、二軍ヒーローは一軍ヒーローが出動している間に起きた窃盗事件の犯人を追っていた。犯人を追いつめたワイルドタイガーだったが、丁度能力が切れてしまったところを狙い犯人のNEXTが発動した。距離は不明だが、近い場所の空間を無機物のみ交換する能力で、虎徹は足下に穴が開き落下しそうになったところをバーナビーに腕を掴まれた。無防備になったバーナビーの背中に虎徹の足下のコンクリートが落下してきたが、他の二軍ヒーローがそれを破壊。犯人も捕らえた。「自分の身ぐらい自分で守れる! 他の仲間が助けてくれたおかげであの場は犯人を確保できたけど、もし助けが入らなかったら、」
「僕がどうなっていたか、ですか? 僕が虎徹さんを助けなかったら、それこそあなたどうなっていたと思うんです」
「スーツ着てれば高いところから落ちたくらいで死なないし!」
「あの商業施設は、僕らのいた二十階から下は吹き抜けで、あなたが落下したであろう場所には複数の買い物客がいたでしょうね。自分が平気なら彼等がどうなってもいい、と?」
「そ、そんなこと言ってない! でも、」
「でもじゃありません」
いい加減自覚してください。虎徹さんの能力の発動は一分なんです。きちんと考えて行動してください。それに、僕が我を通してあなたを助けた訳じゃありません。あそこには僕達以外にも仲間がいた。僕があなたを助けても、フォローしてもらえる、彼等が犯人を捕まえてくれるであろうことを確信していました。もっと、彼等を信じてあげてください。諭すような口調。
虎徹は反論の余地を失った。
「――っ、あ、あたし、は――」
唇を噛み、下を向く。その震える拳を、バーナビーはそっと両の手で握った。
「ごめ、ん」
絞り出すように小さく呟いた謝罪。青年は女の身体ごと抱き寄せた。後頭部を優しく撫でながら、あやすように言い聞かせる。
「虎徹さんが、能力が一分なりに、一分だからこそ頑張ろうとしているのを、僕は知っています。それはあなたにしかわからない苦しみでしょう。知っているだけで、僕は何にもできない。でも、一人じゃないんだってことをわかって欲しいだけなんです」
「ありがとう」
バーナビーの堅いスーツの胸板で、虎徹はさめざめと泣いた。彼女と再会して、泣いているのを見たのはこれが初めてだった。もしかしなくても、きっと彼女は今までずっと己の能力について悩み、こうして泣いていたのではないだろうか。――一人で。どうしようもない愛しさが込み上がる。
きつく抱きしめて、優しくキスをして、僕があなたを守ると告白したかった。スーツ越しで感じようのない感触が、また空しい。それでも、バーナビーはこの瞬間が永遠に続けばいいと思った。
「……ごめんね、情けない姿見せちゃって」
しばらくして、泣きやんだ虎徹が顔を上げた。バーナビーは名残惜しさを微塵もみせず、彼女を解放する。
「最近、うまくいかないところは全部バニーちゃんが助けてくれてたじゃない。それが情けなくて、さ。ごめん、バニーちゃんは全然悪くないのに。むしろあたしがしたいようにしてるのを助けてくれてるのにね」
虎徹の言葉に、バーナビーは内心ぎくりとする。
「なに都合のいいこと言ってるんですか。そんなわけないでしょう。いつもあなたの尻拭いばかりでこっちは大変です」「あはは〜、またまたあ。照れなくてもいいんだよ。バニーちゃんのおかげで、あたしまたヒーロー続けられれるんだって、しみじみ思ったんだからさ。証拠にバニーちゃん――今日気付いたけど、あたしが食ってかからなければ、ほかの無茶に対してなんにも言わないよね」
「勘違いです。いちいち言ってたんじゃきりがないだけです。仮にそうだとしたら、それでも無鉄砲を貫き通すあなたに怒りを通り越して感動すら覚えます」
「うん、ごめんね。こればっかりはどうしょもない。だから、頼りにしてるぜ、相棒」
「まったく。そのうち本当に愛想つかしてもしりませんからね」
大仰にため息をつくと、そこに隠すように虎徹は呟いた。
「それはそれで願ったり叶ったりかな」「え? なにか言いましたか」
「ううん、なんでもない! さ、早く着替えよっ」
不穏な言葉を確かめられる前まえに、虎徹はポーターの奥へ引っ込んでしまった。バーナビーも、もうここへいても仕方ないので自分も着替えに虎徹が入った扉の隣にある扉を開ける。
よもや彼女に気付かれているとは思ってもみなかった。
スーツを脱ぎシャワーを浴びながら、バーナビーは反省する。
虎徹からアクションがなければ説教をしないことは、さっきわかったと言われたが、まさかこちらが意図的に虎徹を補助していることを認識していたとは。
「あのひとは、ほんとずるい」
飴と鞭でいいようにされているのはこちらのほうだ。知っていてあんな行動とっているなんて、もう本当に彼女をどうにもできない。自分はひたすら彼女のために動くしかない。自分の意志で始めたことだったが、これで、自分の意志だけではない外的力で補強されてしまったことのなる。
だが、ある意味それも喜ばしいと感じた自分は、もう思い悩む必要もない幸せ者かもしれない。
虎徹はそうやってバーナビーを拘束したが、バーナビーもまた虎徹を手に入れたのだ。

歪んでいると理解しながら、バーナビーはやっと確固たる絆を手に入れたことに目頭を熱くした
                己の浅はかさを、

一体何度後悔すればよいのだろう。


「虎徹さん!!」
伸ばした手が空しく宙を切る。自分がついていれば安心だという慢心の結果がこれだ。
バーナビーの眼前が文字通り音を立てて崩れていく。
「虎徹さんっ」「バーナビーさん駄目です!」
半壊したビルへバーナビーは飛び込もうとする。しかし他の二軍のヒーローに止められてしまう。
「ここで闇雲にあなただけで行っても、ワイルドタイガーさんの二の舞です!」
「でも僕はまだ能力を発動していない!」
捕まれた腕をふりほどき、能力を発動させるとバーナビーは虎徹を探しにビルへ突入する。
ビルは、物を劣化させるNEXTの持ち主である連続誘拐犯がアジトにしていた建物だ。誘拐犯はすでに一軍ヒーローに捕まった。二軍は、一軍が誘拐犯と戦っている間に人質を解放する任務を遂行。先ほど完了したと思われたが、人質だったある少女が『まだ一人足りない』と供述した。ワイルドタイガーがそれを聞き、崩れる恐れのあるビルへ制止もきかず飛び込んでいったのだ。彼女はすでに一度能力を発動している。まだ一時間経っていない。なのに!
「タイガーさんどこですか、返事をしてくださいッ」
先ほどは取り乱して本名を呼んでしまった。バーナビーは今度はヒーロー名を呼びながら、今にも天井が落ち床を踏み抜きそうなビルを探索する。奥はまだ原型を保っている。崩れたのは入り口付近だけだったようだ。虎徹が巻き込まれた可能性は少ない……と思いたい。
一縷の希望にすがりながら、バーナビーは探査の手を進めていく。
「タイガーさんっ、タイ――!?」
階を一つ上がって呼びかけたときだった。かすかに、今誰かが自分の名前を呼んだ。
「タイガーさん、今呼びましたか!?」
――け、て……バニーちゃん助けて
「っ、わかりました。そこですね!」
聞き間違いなどではなかった。鋭敏になった聴覚は確かに虎徹の声を拾った。方角も距離も、バーナビーはまるで見たようにわかる。だからこそ、喜んではいられなかった。そこが崩れた入り口の近くだったからだ。急いで現場に到着すると、子供を抱えたワイルドタイガーの上半身が瓦礫の山から覗いていた。
「こて、タイガーさん!」
「ば、にーちゃん?」
虎徹は弱々しく頭を動かし視線を上げる。
「嘘、なんで……こんな危険な場所」
バーナビーが助けに来たことが信じられないとでも言うように、虎徹は呟く。なにが『嘘』だ、こちらこそなぜと問いたい。自分が虎徹を助けに行かない訳がない。危険な場所? 真っ先に助けに走った、どの口がそれを言うのか。
「いいから、今は救助が優先です」
「先にこの子をお願い」
言い争っている時間はない。伸ばした青年の手に、女は抱える八歳くらいの男の子をまず助けろと言う。
彼は目をつむり、ぴくりとも動かない。「大丈夫、気絶してるだけ」
怪我も無いと優しく微笑む虎徹に、胸が痛くなる。
バーナビーはしゃがむと男の子と虎徹の間に手を差し入れた。助けさせるために隙間を作ろうと力を入れた虎徹が苦悶の表情になる。引き出した男の子の体が真っ赤に塗れていて、バーナビーは息を呑んだ。
「虎徹さん、あなた……!?」
男の子は怪我をしていないと虎徹は言った。ならば、この血は彼女のものだ。慌てて男の子から虎徹に視線を戻したとき、使命をまっとうしたヒーローは安らかな表情で意識を失っていた――。


あなたは、いつか必ず、僕の手が届かなかった場所で、どんなに手を伸ばしても受け止められない場所へ行ってしまう。
能力持続時間が五分だろうが一分だろうが百分だろうが、問題ではなかったのだ。彼女がヒーローをしている限り、誰かのために彼女が命を落とす。
自分が努力しても、努力しても努力しても努力しても、絶対などない。守ることができない。それを、恐ろしいほど実感した。
もう二度とごめんだと、誓ったではないか。ぼろぼろになった彼女を抱きしめた絶望を。
力が抜けていき、重くなった体の感触を再びその腕に味合わせたいのか? 呼びかけても答えない、血の気の引いた、けれども安らかな表情。あれをもう一度見たいのか?
そんなわけがあるか。
では、彼女を生かすにはどうしたらいい?
どうしたらもこうしたらも、無理だ。彼女を変えることなどできはしない。
なにより自分がそれを望んでいない。ありのままの彼女でいてもらいたい。けれども、それは本当に?
望んでいない?
彼女との、ある一つの未来をおまえは望んでいるだろう。
無理なんかじゃない。
知っているだろう。
知らないふりをしているだけだ。
彼女のために胸に秘めている?
本当か? さらけ出し、玉砕し、結果己が傷付くことを怖れているだけではないのか?
もう充分わかっただろう。
傍にいるだけでは、傍にいることはできない。
覚悟を決めろ。
傍にいたいと願うならば、

―彼女に鎖を巻けばいい。





「あのこにだけは心配をかけたくなかった? 身勝手ですね。虎徹さん、何度も聞いてきたじゃないですか。自分は入院してるのにどうしてワイルドタイガーがHERO TVに出ているのかって。メールで憤慨していたのに、そのおかげで楓ちゃんが入院していたことを知られていなかったことは許容するんですか」虎徹は再び視線をそらした。
「あの事件の人質救出任務は、生放送はされませんでしたが後日二軍ヒーローの活躍にフォーカスされたコーナーが作成され放送されました。その後、何度か二軍中心のVTRが放送されています。あなたも病院のテレビで見たはずだ。一歩間違えたら、ワイルドタイガーのせいで二軍の番組は放送できなくなっていたかもしれない。あなたは前途ある後輩の芽を摘むこともいとわないというんですか」
虎徹はなにも言わない。バーナビーは名前を呼び、返答を催促する。
「違う」
一言だけ言い捨てた女へ、ならばと青年は迫った。
「では今ここで誓ってください。もう絶対に、無謀な行動はしないと。お願いです、僕はこれから先も虎徹さんと一緒にヒーローでいたいんです。あなたを守るためなら、どんな手段も選ばない。たとえそれがあなたの自由を奪う鎖を巻くことになったとしても。僕はあなたを死なせたくないんです」「バニー、おまえ、どうしてそんな」
女は乾いた声で問う。理解しがたいと、愕然として漏らした言葉に、青年は女の座る椅子へ手と足をかける。
「どうして、ですって? 決まってるじゃないですか」
虎徹へ覆い被さるようにしてバーナビーは告白した。
「僕が、あなたのことを好きだからですよ、虎徹さん」
頭上で低く囁かれた告白に、虎徹は驚くわけでもなく、恥ずかしがるわけでもなく、ただ哀れむように目尻を下げた。予想以外の反応にバーナビーの方が戸惑った。
「バニーちゃん」
女は挑発的に青年を見上げる。バーナビーの言葉に打ちのめされしおれていたさっきまでの様子が嘘のようだ。強い意志を宿し凛とした琥珀の瞳が、バーナビーの心を捕らえる。「もしもバニーちゃんが、あたしより大切なモノを作れたら、バニーちゃんと付き合ってあげる」
「な、」
突然飛躍しすぎた彼女の言葉に面食らった。
「でも、それができなかったら、あたしを守るのはやめて。大丈夫、あたしはもう無茶しないから」
その言葉を聞いて、虎徹の言わんとしていることがわかった。カッと頭に血が上る。
「やはりずるさにかけては虎徹さんのほうが一枚上手のようだ。いいでしょう。わかりました、そちらがその気ならこちらにも考えがあります」
不適な笑みを返し、バーナビーは言った。
「僕が虎徹さんの一番になれば、問題ありませんね」
「は!? なんでそうなるのバニーちゃん」
想像していた通り、虎徹は慌てふためいた。「なんでって、だってそうでしょう。僕は虎徹さんより大切なモノなんて作れるはずがありません。それを見越してあなたは僕を諦めさせようとしたのでしょうが、なら虎徹さんの一番を僕にしてしまえば解決します」
「いやいやいや、話飛びすぎ! なら解決しますって、全然筋通ってない。だいたい、バニーちゃんがあたしの一番になるわけ――」
女ははっとして口を押さえた。しかし青年は気にしてなどいなかった。
「そうです、お互いがありえないと主張している。なら条件は互角じゃないですか。さあ虎徹さん、賭けをしましょう」
あなたが僕に別の大切なものを作らせられるのか、僕があなたの一番大切な存在になれるのか。
「わかった。期限は?」やっと腹をくくってくれたようだ。挑むような視線をうけ、バーナビーは不敵に微笑む。
「今年の一二月二十四日。クリスマスイブです。さあ、これで成立しました。お互い頑張りましょうね。まあ、どちらにしろ僕が勝っても負けても、虎徹さんは僕とお付き合いすることに変わりはありませんけど」
「あっ!?」
その言葉に、すっかり忘れていたと女は間抜けな悲鳴を上げる。
「ちょ、ちょっと待ってバニーちゃんやっぱ待って」
「駄目です。パソコンのレコーダーに全部録音しました。言い逃れも釈明も不可能です」
「こん、の……ッ」
顔を真っ赤にして繰り出してきた虎徹の拳をひらりと交わす。
「さて、僕は明日出勤です。そろそろ眠りたいのですが寝室にはお姫様がいらっしゃる。僕は椅子で寝ますから、どうぞ虎徹さんは楓ちゃんの隣で寝てください」娘を自分の部屋で寝かせなかったことをしくじったとばかりに虎徹は顔をしかめた。もちろん、バーナビーはそこまで計算にいれて楓を自室のベッドに寝かせている。
「おやすみなさい」
「おやすみ!」
挨拶を振り返らずに答えて、虎徹は寝室の扉を閉めた。



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