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2011/07/06
美しい白
最期のともえが虎徹に呪縛をかける話。 7/18「GO NEXT!」新刊の兎虎本の前半ですが、どうしてもこの部分だけネットに公開したかったので全文あげました。
※7/27追記:漢字、巴じゃなくて友恵でしたね。 公開前の妄想なので、許したってください……。
「あなたは私を愛するがゆえにヒーローでなくなり、
 ヒーローとして生きたかったゆえに後悔し、
 なによりそんな自分を許せなくなるでしょう。
 好きな人のためと言いながら、結局は後悔している自分はなんて身勝手なのかと」


ヒーローをヒーロたらしめている理由。鏑木・T・虎徹にとって、それは二つある。
一つ目は、彼のNEXTとしての能力 。
二つ目は、家族。
このどちらが欠けても、彼はヒーローたりえない。しかしそれを一番理解していなければならない本人は、まったく理解していなかった。いや、正しくは認識していなかったというべきか。彼は明確にその二つ理由に従って行動してはいたが、彼の中で確立し明文化されてはいなかった。
『己のNEXTとしての力をヒーローとして人々を守るために役立てる』漠然としていて、それでいて確固たる信念はその二つの理由によるものだとは、彼は認識していなかった。
よって、彼の妻が死んでしまったとき、彼はヒーローではなくなってしまうところだった。
だから、鏑木巴は最期に魔法をかけた。むしろ呪いであるとわかっていても、彼を不自然に縛るとわかっていても、鏑木・T・虎徹をヒーローたらしめるために、魔法 をかけた。
誰かが解いて、くれると信じて。





病院独特の消毒の匂いは、病室に入った瞬間霧散した。個室の開いた窓からの風が、部屋の主の長い黒髪をゆるりとかきあげる。カーテンをひかないため直射日光が寝台に大きく白い影を引いていたが、虎徹にはその光より彼女が輝いて見えた。
「よお、巴。具合どうだ」
「いらっしゃい、あなた。見ての通り、今日はとっても気分がいいの」
虎徹が花束を持った手を上げると、巴はにっこりと白い顔を笑みに形作った。消毒の匂いがしないのも道理だろう。鏑木巴の病室は、虎徹が見舞いのたびに持参する花束で埋もれていた。別に手ぶらでいいのにと妻に言われたが、虎徹はがんとして聞かなかった。
『家じゅうの花瓶どころかコップまでなくなっちまうよ』と安寿に言われたため、最近は花瓶も一緒に買ってくるときもある。今日は前に枯れたものを安寿が処理したものが一つあいているので、花束だけだ。
虎徹は巴に白い花々を差し出した。
「きれいなカサブランカ」
花瓶にいけられる前に、こうして必ず巴は香りをかぎ、花弁や茎や葉を愛でる。実はその様子を見たいがために虎徹は花を持ってきていた。
彼女のその優しい笑顔が、二人の娘である楓に接しているときと一番近いのだ。楓はまだ四歳で、滅多に母である巴の見舞いには来ない。以前は頻繁に見舞いに来ていたのだが、院内でたちの悪い風邪をうつされてからは二週間に一回ほどの頻度になっている。
実際に娘と会わせているわけではないから、所詮は自分のエゴだと虎徹はわかっていた。わかってはいたが、虎徹自身も楓と会えないのが辛かった。擬似的にでも三人でいる表情を巴に見せてもらって、虎徹は寂しさを紛らわせているのだ。
虎徹は娘である楓と一緒に住んではいない。
仕事の都合で、母である安寿に楓を任せ、シュテルンビルドの最下層に独り居をかまえている。
楓が生まれたときに話し合って決めたのだ。家族がなによりも大切だから、別居しようと。子供が産まれた早々別居などと聞こえは悪いが、それが虎徹の職業にとっては最善だった。
虎徹の仕事――つまり、ヒーローにとって。
「ね、さっきテレビで見たわ。五人も一気に強盗犯を逮捕するなんてさすがMVP。今期も最初から気合入っているわね」
カサブランカを花瓶にいける虎徹に向かって、まるで自分のことのように巴が声を弾ませて言った。
「ま、まーな」
一方虎徹はとっくにいけ終わったカサブランカを、無駄に位置を調整しながら言った。視線を落とし、真っ赤になった顔を巴から隠す。
「もう、なに照れてるの。私にとってワイルドタイガーが活躍してくれることは、なによりも嬉しいんだから」
もっと堂々としなさい、ヒーロー! バシッと背中を叩かれて、虎徹は小さな悲鳴をあげた。
「ったってよ……」
ヒーローはシュテルンビルドの平和を守る、司法局から認可され企業をスポンサーに持つNEXT達の総称だ。虎徹はTOP MAG所属のワイルドタイガーという名で活動している。
虎徹も巴もヒーローが好きで、それが縁で結ばれている。二人にとってヒーローは特別だった。だから巴は夫がヒーローとして前期のMVPになったことをなによりも喜んでいた。熱が出て病状が悪化し三日三晩寝込んでしまうほどに。
しかし、虎徹は己がMVPになったことを純粋には喜べなかった。自分が人助けをしまくって、結果一位になったのなら、虎徹は素直に喜んだだろう。だが、違うのだ。前期、ワイルドタイガーはポイントを得るために人助けをしていた。そして、今期も。
「ポイントの為に、人助けして……こんなのヒーローじゃ」
「ワイルドタイガー!」
「は、はいぃ!」
突然巴にヒーロー名を鋭く呼ばれ、虎徹は反射的にきをつけをした。
「タイガー、あなたはなんのためにヒーローをしているの?」
巴は腕を組み、キッと虎徹を睨み上げた。反射的に、虎徹は視線を反らし足元を見る。
「人助けのためです」
「人助けをするとどうなるの?」
「ポイントが入ります」
「タイガーはどうしてポイントが欲しいの?」
「MVPになって、年俸をあげるためです」
「どうして年俸をあげたいの?」
「……巴の治療費が、必要だから、です」
「私を助けることは、人助けじゃないの?」
「……」
黙ってしまった虎徹に、巴は優しく声をかけた。
「顔を上げて、こっちを見て。虎徹」
ゆっくりと面をあげて視線を合わせると、巴はにっこりとほほ笑んで手を差し出した。おずおずと、虎徹はその白い手のひらに自分の手を乗せる。温かく、柔らかい感触が虎徹の手を包んだ。巴の両の手が、虎徹の手をぎゅっと握りしめている。
「巴……」
「大丈夫。なんにも引け目を感じることなんてないわ。あなたは立派にヒーローとして活躍してる。その行動が、ポイントシステムに反映されているだけ。ポイントのためにあなたは働いてるんじゃないわ。ポイントがあなたによって表層化されているだけなの。あなたは最高のヒーロー、ワイルドタイガーなんだからね! このヒーローマニアの鏑木巴が言うのよ」
だから安心してヒーローしていなさい。
「そうだな、その通りだ。ありがとな、巴」
虎徹は包まれていないもう一方の手を、巴の手の甲に乗せた。
白くて華奢な、手。
そうだ。この手のぬくもりを守るために、俺はヒーローをしているんだ。

「巴っ、しっかりしろ巴!」
握りしめた華奢な手。青い血管が浮き上がる、白くて冷たい手。馬鹿だ、なにを勘違いしていた。自分の手じゃ、彼女を守れない。ヒーローじゃ彼女を守れない。――ヒーローでなくても、彼女を守れない……っ。
『手は尽くしましたが、非常に不安定な状態です。もしこのまま目覚めなければ――』
出動中、犯人確保まであと一息というところでワイルドタイガーにプロデューサーから通信が入った。病院からの連絡で、鏑木巴の容体が急変し意識不明の重体だと。
ワイルドタイガーは現場を放棄。すぐに病院へかけつけ、医師から絶望的な言葉を告げられた。
マスクから漏れる酸素の音。感覚の遅い心電図の音。死の音だ。ここには今静かに死が沈殿していき、愛する人を沈めようとしている。
「ママッ」
「巴さん……!」
楓と安寿も到着した。四歳でも、母親がなにか大変なことになっていることぐらいわかる。楓は声こそあげなかったものの、ボロボロと涙をこぼしてベッドのシーツを掴んだ。
「楓、」
虎徹は優しく娘を抱き上げて、楓が母親の顔を見れるようにする。最初は安寿に頼んで別室で楓を寝かせておこうかとも思った。だが、意識がなくとも声は届くという。ならば
「楓、これからパパと、ママの目が覚めるように応援しよう」
「おう、えん?」
「そうだ。ママはな、本当は今すごく起きたいんだ。起きて、楓をぎゅって抱きしめてやりたいんだ。でも起きられない。だから、ママが起きられるように二人で頑張れって応援しよう。な?」
落ち着いた声で語りかけると、楓は泣きやむ。「わかった」きゅっと表情を引き結んで、楓はうなずいた。
「ママ、がんばって! かえでのこと、だっこしてほしいよ」
虎徹は椅子に座ると、片方の手で娘を支え、片方の手で妻の手を再び握りしめた。
「母さん、母さんも頼む」
「もちろんさ」
安寿もパイプいすを出すと、虎徹の隣に座った。
「巴さん、しっかり。楓がね、逆上がりができるようになったんだよ。見たげておくれよ」
「そうだよ! まだともだちでも、だれもできないんだよ。わたし、いちばんにできるようになったの!」
瞳をきらきらさせて自慢する少女の瞳には、もう憂いはない。ただ母親に起きて欲しい、ほめてほしい、抱きしめてほしい。その純粋な想いだけだった。
「そうかあ、そりゃあすごい」
「ママがおきたら、パパもいっしょにみてね」
楓はしゃべり続けた。逆上がりはできるようになったが、まだ逆立ちができないこと。自転車に乗る訓練を毎日していること。育てている花が咲いたこと。転んでお気に入りのブラウスを破ってしまったこと。そうしたらパパが新しいお洋服を買ってくれたこと。
少女が一生懸命語りかける話は、特別でもなんでもない、たわいのない出来事だった。けれども、そのひとつひとつは、彼らにとってかけがえのない大切なことだ。
「ママ、いまいったことぜんぶ、ママと、それからパパといっしょがよかった」
あんなことがあった、こんなことがあったと嬉々として話していた楓の表情が、突然曇った。
「ママ、どうしておめめさましてくれないの」
「楓……。」
とうとう泣き出した娘を、虎徹は両手で抱きしめた。
「ぱぱぁ!」
楓は父親の厚い胸板にすがって、わんわん大声を上げた。虎徹はいさめるわけでもなく、静かに娘の背中を撫でる。楓が、安寿がいなければ、情けないことにもしかしたら自分も泣いていたかもしれない。そして、その涙を受け止めてくれる人はいない。
けれども楓には、まだ、自分がいる。娘には感情を殺して欲しくはなかった。こんな気持ち、小さな子供に抱えさえるには重すぎる。
しばらくして、疲れたのか眠気に抗えなくなったのか、楓は泣きやむと船を漕ぎはじめた。そのまま眠ってもらうよう、虎徹は背を撫で続ける。
「虎徹、」
「ん、ああ、ありがと」
すっかり寝入ったのを見計らって、安寿が楓を引き取った。そのまま虎徹残し、安寿は退出する。
病室に、ふたりぼっち。
「巴、聞こえてたろ。楓、たった数カ月しか俺達と離れてないのに、ずいぶん色々あったろ、できるようになったろ、俺達がいないのに、成長しちまうんだなって、思ったろ。俺も、最初そう思った」
ぎゅっと、血の気のない手を握る。白い手。いつも自分と娘を繋ぎとめていてくれた手。叱ってくれた、優しい手。
「けど、やっぱ違うんだ。だって言ったろ、楓は俺達と一緒がいいって、言ったろ」
だめだ、どうしょもなく、一人で、独りで、声が、震える。泣きたくない、受け止めてくれる人のいない涙は、己を溺れさせる。
「俺達のために、あいつ頑張ってんだ。だから俺達もガンバらねえと、なあ、巴」
なあ。
なんで目、開けてくれねえんだ。
なんで手、握り返してくれねえんだ。
なんで名前、呼んでくれねえんだ。
「巴……っ」
きつく握りしめた冷たい手。白い手。愛おしいはずの手。それが、恐ろしい。恐ろしくてたまらない。けれども、それで、手を離して、しまったら、二度と戻ってきてくれない気がして、握り続けるしかない。
呼吸の音。
心電図の音。
自分の、嗚咽。
「とっも、えッ」
死ぬな、おまえに置いていかれたら、ヒーローなんてできなくなってしまう。だって、こんな誰も守れない手じゃ、ヒーローなんてできやしない!!
それは嫌だ。おまえの好きな、ヒーローでいられなくなってしまう。そんな自分は許せない。それじゃあ永遠に、離ればなれになってしまうではないか。
「俺は、おまえがいなきゃ、」
駄目なんだ――。
そう、訴えようとした声は、虎徹の喉へ引っ込んだ。
「え……」
今、動いた。
動いた、確かに動いた勘違いなんかじゃない、握りしめた白い、手、が、かすかにだが、ほんのかすかにだが、動い、た――動いた、気がする。
「巴っ」
虎徹は両手で白い手を握りしめて叫んだ。
すると、今度は閉じられた目蓋が、薄く震えた。見間違いなんかじゃない、勘違いなんかじゃない。
「巴っ」
虎徹は叫んだ。
「巴っ」
その名を呼ぶたびに彼女がこちら側に近づいてくる気配がした。
「巴!」
「……こまったひと」
蝶の羽根が震えるより儚い声だった。しかし、虎徹の耳にはしっかり届いた。ついで、薄く開かれる、目蓋。
「――っも、え」
ゆっくりと開かれていく瞳に、ぐちゃぐちゃになった顔の虎徹が映りこむ。
「巴、巴……っ」
「もう、なんて顔してるの」
女は虎徹の手を握り返した。それはとても力弱かったけれど、虎徹には充分だった。満ち足りた。
世界に、光が戻った。

容体を持ち直した巴をいったん医者に預け、虎徹は急いで安寿と楓の元へ向かった。楓はぐっすり眠っていたので安寿だけに次第を伝えると、彼女は心底ほっとした表情を浮かべた。最初、入ってきたときあまりに息子が急いでいたのでもしやと思ってしまったではないかと、思い切り背中を引っ叩かれてしまった。
ひりひりする背中をさすりながら、虎徹は眠りについた。

翌朝、三人は改めて巴の病室に訪れた。
微笑む母親の姿に娘は輝かんばかりの表情で手を握り合った。今度来たら抱きしめてもらう約束をして、安寿に手を引かれ楓は幼稚園へ向かった。
再び二人きりになったところで、虎徹も妻の手をとろうと腕を伸ばした。ところが。
「あでっ」
ぺしっと小気味のいい音を立てて、日焼けた男の手は叩き落とされてしまった。
「と、巴さん?」
思ってもみない妻の行動に、虎徹は目を白黒させる。妻の表情は娘に見せていたものとは一変、いや、笑顔は笑顔であったが、目が笑っていない。背筋にうすら寒いものを感じて、虎徹は無意識に一歩退いた。
「ね、虎徹」
ああ、妻に名前で呼びかけてもらえることの嬉しさが、その凍った声音で相殺される。彼女はまさに確実に絶対に怒っている。ものすごく、怒っている。
(俺なんかした?)
心当たりがなさすぎて、夫は妻の出方をみるしかない。へたにどうしたのかなどと聞けば、なぜ分からないのかと返されるのは目に見えていた。
「これはいったい、どういうことかしら」
巴は、さっきからニュースを流していたテレビを指さして言った。視線を移すと、なんとなく見覚えのあるガラの悪い男が映っている。そうだ、思い出した、昨日虎徹が――ワイルドタイガー達ヒーローが追いかけていた犯人だ。ニュースキャスターが緊迫した面持ちで読み上げるニュースに、虎徹はさっと血の気が引いた。
その犯人が現在人質をとって籠城しているというのだ!
「すすすすまん、確かに取り逃がしたというか直前でおまえが危篤だって連絡が入っていてもたってもいられず帰っちゃったていうかその」
虎徹は一気に状況を理解した。
鏑木巴は大のヒーローマニアである。その彼女が、自分のせいでヒーローが犯人を逮捕できなかったなんて事態、あってはならぬことである。ゆえに、
「言い訳無用! 説教はあとでします、とっとと犯人捕まえてこい!!」
「はいぃッ」
病室の扉をびしっと指さした巴に、虎徹は弾かれたように部屋を飛び出した。

虎徹が再び巴の病室を訪れたのは、それから五日後のことであった。本当はもっと早く来たかったのだが、度重なる出動要請に機会を逸してばかりだったのだ。
「さて、虎徹さん」
「はい、巴さん」
天下のヒーロー、ワイルドタイガーは、妻の養生する寝台の隣のパイプ椅子に、肩を縮ませ小さく座り込んでいた。ここが自宅だとしたら、きっと正座していたであろう。まるっきり、叱られる子供のそれである。膝の上で握った拳を見下ろしながら、虎徹は断罪の言葉を待つ。
「私は、とても怒っています。なぜだかわかりますね」
「はい、わかります。俺がヒーローでありながらその勤めを放棄してしまったからです」
よくわからない敬語で答弁が始まったが、いつもの事である。巴は本気で怒ると気持ちを落ち着かせるために、こうしてゆっくり丁寧に話すのだ。つられて、虎徹も敬語になる。
「その通りです。よろしい、しっかり理解し、反省しているようですね。では二度とこのようなことは起こさないと、誓いますか」
「はい、誓います」
嘘だ。もしまた彼女が倒れれば、自分はすべてを投げ出して彼女の元へ駆けつけるだろう。たとえそれで、ヒーローをやめさせられたとしてもかまわない。
こうして怒られるのだって、彼女が生きているから可能なことだ。だったら、何度でも自分はヒーローとして過ちを犯すだろう。
「ですが、もう一つ、私はあなたに言いたい。虎徹さん、手を出してください」
「えっ、あ……」
どういうことなのか、今までにないパターンだ。今までは反省し、二度としないと約束すれば、それで終わりだった。
虎徹はそっと面をあげた。男の眼に、今にも泣きだしそうな妻の姿が映った。
「と、巴!?」虎徹は立ち上がると両手で巴の手を握りしめる。
「私がいなくちゃ、ヒーローできないなんて馬鹿なこと言わないで」
「聞こえて、たのか」
意識が戻る前に語りかけていた言葉でも、伝え聞いた通り確かに本人に届いていたらしい。
「当たり前じゃない。だから、こうして私は戻ってきたのよ」
よかった。諦めず呼び続けて本当によかった。でなければ、今、彼女とこうして話してはいられなかった。
「虎徹、お願いだから思い違いをしないで。あなたの力は人を助けるためにあるわ。けれども、私は助けられない」
「と、もえ?」
なにを言っているんだ、現に彼女は自分の呼びかけで戻ってきたではないか。
「私を助けることができないと、嘆いていてもそれは当たり前のことなのよ。あなたの能力は病気を治すものじゃないもの。だから、自分を絶対責めたらだめ」
「な、なんだそのことか」
内心ぎくりとしながらも、虎徹はそんなことはわかっていると答えた。だが、ふるふると巴は頭を振った。
「違うわ、全然わかってない。あのね、私はね、虎徹がヒーローでなくなられたら、嫌なの。それが一番、あなたが傷つくことだから」
「俺が一番、傷つく?」
「そうよ。私のために、ヒーローでなくならないで」
鏑木巴のためにヒーローをやめるな。
妻の言葉に、虎徹ははっと息を飲みそうになった。さっきの答弁で見透かされていのた。彼女は、虎徹が自分のためならヒーローでなくなったって、いいと考えていることを見抜いている。
「ねえ虎徹。私を『ヒーローじゃなくても鏑木虎徹を愛している』なんて言える人間だと思わないで。いいえ。そんなことを思う人間を、妻にしたいと思っているの? 『あなたのヒーローへの想いを誰よりもわかっている私』を好きなあなたを否定して、あなたはどうやってこの先生きていくの? ヒーローでないあなたは、どうやって生きていくの? ヒーローであることでしか、生きていけないあなたが」
「あ、お、俺は……」
巴の言葉だけが実体化し、この身を打ちのめしたかのような感覚に、虎徹は瞠目し息を詰めた。
「私は嫌よ。あなたは絶対に後悔する。私のせいで、ヒーローをやめたことを、あなたは一生悔いる」
「そんなはずないだろ!」
否定した言葉に、巴ははっきりと首を振った。
「あなたは私を愛するがゆえにヒーローでなくなり、ヒーローとして生きたかったゆえに後悔し、なによりそんな自分を許せなくなるでしょう。好きな人のためと言いながら、結局は後悔している自分はなんて身勝手なのかと」
巴の言葉は、虎徹の深淵を暴き立てた。今は、逆に虎徹の手が巴に握り返されている。
「そんな想い、虎徹には絶対にしてほしくない、ううん、絶対にさせない」
巴の白い頬に、一筋想いが伝った。
「ありがとう」
虎徹はそれしか言えなかった。
自分の見たくない愚かしさも、彼女は見透かし、それでも愛してくれているという事実に心が震えた。己が浅ましさに嫌悪しながらも、それすら愛してくれる存在があることに、虎徹は感謝した。
「ごめんな。ほんと、こんな馬鹿な男でよ」
「ばかね、そんなあなただから、私は好きになったのよ」
だからこそ、あなたはヒーローを捨てるでしょう。私の最期を看取るために、世界の裏側からでも駆けつけるでしょう。たとえ、ヒーローでなくなるとしても。
ごめんなさいね、そうよ、わかってるんだ。私、死んじゃうの、この先も一緒にいられないの、あなたの恨みを受け止めてあげられないの。だから、これから私はあなたがヒーローを続けてもらえるようにしないといけないの。あなたの声を聞いて、このままじゃいけないって、最期の力を振り絞って戻ってきたの。
ごめんね、虎徹。ごめんね、ワイルドタイガー、私の、ううん、みんなのヒーロー。
鏑木巴は、虎徹が去ってから病室にあらわれた夫の上司に、白い手を差し出して微笑んだ。
「初めまして、Mr.ベン。夫がいつもお世話になっています。ワイルドタイガーの妻、鏑木巴です。あなたにお願いしたいことがあって、ここに来てもらいました」

   §   §   §

信じられるわけがなかった。
だって、そんな、昨日会ったときは笑っていた。一緒に笑ってくれた。
握った手の柔らかな感触でさえほら、変わらない。
なのに、どうして彼女は息をしていない――?
「パパァ」
現れた父親に、まっさきにしがみついた娘は、抱きしめ返すだけでなにも言わない虎徹の胸板に顔を沈めた。男はただ、その小さな背を撫でることしかできない。なんて無力な両手だろう。泣きはらして、涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れた顔面は、母親がもう二度と目覚めないことを理解していた。
妻の白い、白い、白い手を離し、男は両腕で娘を抱きしめる。安寿が寝台の脇で静かに嗚咽をもらしている。自分が来たことでようやく泣けたのだと、虎徹は理解した。
医師も看護師もいない、三人と一人だけの病室。
そこに、二人で、ずっと二人で虎徹を待っていた。
「巴さんが頼んだんだよ、あんたを呼ばないでくれって」
巴が息を引き取った時刻を聞いて、虎徹は唇を噛んだ。ちょうど、ヒーローTVが生放送で銀行強盗犯を捕える様子を放送していたときだ。もちろん、ワイルドタイガーは真っ先に犯人を捕らえ、最終的に一番多くのポイントを得ていた。
「巴さんね、テレビであんたの活躍見ながら、嬉しそうに逝ったよ。ほら、よくみてごらんなさいよ。なんて幸せそうな顔して、眠ってるようにしか見えないよ」
寝台に横たわる、微動だにしない妻の体は、確かに眠っているようにしか見えない。けれども、楓ですら起きることがないと分かる、その、絶対的な死の感覚。
「ママ、もうおきられないんだって」
「ああ」
父親の胸で散々泣いて少しは落ち着いたのか、楓が呟いた。
「ママとやくそくしたの。ママがゆっくりねていられるように、ゆびきりげんまんしたの」
「なんて約束したんだ? パパに教えてくれるか」
右手の薬指を、楓は立てて言った。
「しあわせになる」
「そうか、」
虎徹は、目を細めその小さな細い、妻によく似た白い肌の指に自分の小指を絡める。
「よし、ならパパも約束するぞ。ママがゆっくり眠れるように」おまえを、絶対しあわせにする。
楓はこくりと頷いて、約束の言葉を歌った。
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたらはーりせーんぼんのーます、ゆびきったっ」




虎徹へ

この手紙を読んでいる頃には、もう私はいないでしょう、ってすっごい本の中の言葉みたいだね。まさか自分で使うことになるとは思ってもみなかった。
ええと、虎徹に沢山、伝えたいことがあります。
まず初めに、もし虎徹が私の死に目にあえなかったら言いたいことが一つ。私が危篤になっても、あなたを呼ばないように安寿さんと病院の人と会社の人に頼んだのは私です。だから、みんなのことは恨まないであげてください。
あのときの犯人確保ができなかったせいで、ワイルドタイガーへの世間の評価はガタ落ちです。もう一回やったら解雇だってありえたの、わかってたよね。たまたま運悪く取り逃がした犯人が、さらに犯罪を起こしたからそんなことになっちゃっただけだと思ってる? あまーいっ、もしそうならなくても、私は出動中に死にそうになっても、虎徹を呼ばないように頼んでた。
ああ、でも恨むっていっても、虎徹の性格ならまわりを恨むより、自分を恨むんだろうなって思って、すごく胸が痛いです。いくら仕方がないことなんだよって言っても、虎徹は納得しないだろうから。でも、言わせてもらいます。
たとえ私が危篤だって聞いてここにきても、あなたの力では、私を助けられない(実際、助けられなかったでしょ?)。
そんなことよりね、私は、あなたの力で助けられるものを助けてもらったほうが、幸せ。
はい、この二行最低十回は読んで!
私は、虎徹がヒーローしてる姿を見ると、幸せなの。わかる? 私を助けられないって嘆く虎徹なんか、見たって私が悲しくなるだけなの。そんなことより、虎徹がみんなのために活躍してる姿を見るほうがどれだけ幸せか! わかる? つまり虎徹は私をちゃんと救ってくれてるんだよ。お見舞いに来てくれた途中で出動要請があって、ごめんなって言いながら走っていくあなたを見るの、好きだったんだぁ。
私は幸せでした。鏑木・T・虎徹の、ワイルドタイガーの妻で、幸せでした。
私がいなくなることで、虎徹がヒーローでなくなるなんて我慢できないくらい、私は幸せでした。
むしろ謝りたいのは私のほうです。
虎徹をヒーローとしか生きさせられなくてごめんね。私と楓だけのヒーローにさせられなくてごめんね。
もしもずっと一緒にいられたら、虎徹がヒーロー引退しても、ヒーロー一筋の虎徹が抜け殻になんかならないよう、私が虎徹と新しい人生歩めるようにしたんだけどな。
だから自分が死ぬんだなって悟ったとき、本当はあなたをヒーローとして縛るんじゃなく、今すぐいろんな選択肢を選べるように解放してあげたかった。けれど、こんな時間のない私じゃ、できるわけなくて。
かといって、私が死んだらなんにも手につかなくなっちゃうのもわかってるんで、虎徹はヒーローとしてもっと縛られてください。こうしてしまえば、あなたは絶対にヒーローであろうとするのをわかって、あえて言う私を許してね。
私はあなたがヒーローとして生きることを望みます。
どうかお願い、私の最期の願いを叶えて。

NiconicoPHP