アサツユソウ

「シギ、ご主人様はまだ寝ているのかい」
「そりゃあそうさ、昨日は椿男爵の夜会だったんだもの。お昼まで起きちゃあこないさ」
ふうん。と、同僚の言葉に自分から聞いたにも関わらず気のない返事をすると、スオは屋敷の裏、花岸庭園へ向かおうとした。

「待てよ。眠ってらしても、時間通り侍従頭からお呼び出しがくるぜ。そのときおまえがいなきゃあ、同室のおれまで罰当番を一緒にさせられるじゃないか」
「煩いな。ちょっとぐらい良いだろう。僕は昨日植えた朝露草が気になってしょうがないんだ。」
「そんなの、昼休みに見に行けよ」
「莫迦だな、朝露草は名前の通り朝しか咲かないんだぞ。昼に行ってどうする。もういいよ」

埒が明かない、とスオは同居人との会話を切り上げる。そして二階の窓から飛び降りた。シギは引き止める暇もなく「まって」と発する口の形を作ることしか出来なかった。
ああ、また罰当番だ。そうこぼした声が、スオには聞こえた気がした。


花岸庭園は、彼らの主人『緑彩夫人』の持つ庭の一つだった。夫人は庭を百と一つ持っている。彼女の名前は二年前死んだ夫にしか解らない。緑彩夫人は彼女の持つ庭園の多さにちなんで、便宜上つけられた名だった。夫人も、もう自分の名前は忘れてしまっている。そして、百の庭も彼女は忘れていた。

花岸庭園は、夫人の忘れた庭の一つだった。いや、一番忘れたかった庭だった。だから彼女は最初に忘れた。夫人は皆が目にする前庭――香輝庭にしか注意を払わなくなった。この庭の真ん中には、噴水が取り払われ代わりに黒い石があった。石は新しかった。

スオの植えた朝露草は、二年前彼が屋敷に来たばかりの頃、こっそり持ち出したものだ。処分された緑彩夫人の夫、櫻伯爵の宝石箱の中にあった。宝石箱といっても、伯爵がただそれを生前『宝石箱』と呼んでいたからにすぎない。単なる木箱だ。

スオは箱の中にあった、『朝露草』と書かれた羊皮紙の切れ端と数十個程の小さな丸い物体を見比べて、その物体が植物の種であろうと推測した。そして植えてみた。が、いっこうに芽は出ず、これが百度目の挑戦だった。


夫人の忘れていった庭に、スオは次々と種を植えた。いい加減、あきらめてもよさそうなものである。が、それ以前に不思議なのは、植えても植えても種が減らないことだった。二年前箱を開けたときのまま、種はあった。

朝露草が朝しか咲かない、というのは出鱈目だ。スオの、勝手な思い込みだった。咲かない花を想っては楽しんでいた。彼にとっては、むしろ芽を出させることはおまけで、想像を膨らませる為に植えているようなものだった。

「さて、芽は出てるかな」
さしたる期待も持たず、スオは荒れ果てた花岸庭園へ踏み入れた。茶色く萎れた草花が、まるでそのまま時を止めたように群がる中、丁寧に整えられた空間がぽつんとあった――はずだった。昨日までは。

昨日スオによって均された場所は見えず、代わりに緑の光がそこにあった。
朝露草が咲いていたのだ。いや、正確に言えば花はない。細く細かい葉に付着した朝露が、花弁を形作り、光を反射しているのだ。たった一晩で、こんなにも成長するなんて。
と、風もないのに、朝露草が囁くように揺れた。
「え……」
スオは唐突に理解した。
同時に朝露草は弾けて、光の、水の粒子を散らす。


朝露草は教えてくれた。緑彩夫人の名前。
それは――。

End.


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