箱庭のセカイ。創り出した幻想はヒズミ。あなた、ねぇ、もう居ないなら、意味はないのよ。 忘却の庭 椿男爵には娘がいた。 世間からは隠し育てたので、名前はない。妾の子で、二目と見られぬ醜い容姿。しかし娘の心はイシュアの泉より澄み、歌声は、聞けば歌神メレトも聞き惚れるだろう。花や草木と心を交わし、蝶と遊び、野の動物と地を駆ける。男爵は、そんな彼女のために庭を造った。百と、一つの庭を。娘がどんな器量であれ、男爵は我が子愛していたのだから。 庭からは毎日歌声が絶えることはなかった。鳥にウサギ、狼も、彼女のまわりに身を休めて歌を聞く。男爵も時折訪ねては静かに耳を澄ます。バスケットを広げ、一緒にランチをとることも珍しくなかった。 娘が十七になった年、男爵は二番目の妻を娶った。最初の妻は結婚してすぐ――二十一年前に流行り病でこの世を去った。そんな折、寂しさを癒してくれたのが風花亭の歌姫だった。身分違いで娶ることも叶わなかった歌姫。彼女もまた早くに、娘を残して逝ってしまった。それからは、ひたすら娘一筋に愛情を注いでいた男爵であったが、家は没落の一途をたどっていた。二番目の妻の、実家の援助と大量の持参金に頼るしか、彼らを救う方法は残されていなかった。 新しい妻は、若く美しかったが甘やかされて育ったため、たいそう高慢ちきな性格だった。継娘をその器量から嫌い、辛く当たった。娘は屋敷に一番近い香輝庭ではなく、もっと奥深い庭にこもるようになった。男爵はそんな娘をただ見守ることしか出来なかった。立場上、妻の機嫌を損ねることは出来なかったのだ。 そんな日々が続いたある日、椿男爵は珍しい植物の種を手に入れた。朝露草という。花が光るのだそうだ。幸せを呼ぶという謳い文句が少々胡散臭いが、きっと娘が喜ぶだろう。そう思って手配したものだった。妻に見つからぬようこっそり渡したそれに、娘は久しぶりに笑顔を見せた。 娘は百と一つの庭の内、最も奥にあり、最も櫻の美しく、最も気に入っている、花岸庭園にソレを植えた。翌朝行ってみると、種は一晩で見事に成長し、朝露の花を形作っていた。 娘は涙を流した。 光る花に口づけ、嚥下した。 櫻が舞う中、久方振りに歌を歌った。 古い、古い櫻の木。風が吹き、ごう、と鳴く。 朝露草の雫が舞い、娘は溺れてしまった。 娘が気付くと、朝露草は陰も形もなく、櫻は全て散っていた。もう夕方だった。服はびしょびしょで、早く乾かさないと風邪を引いてしまうだろう。起き上がると、隣に男が倒れていた。服は濡れていなかったが、彼は櫻の花びらに埋もれていた。歌い、動物達を集めると、そのなかから一番大きな鹿を選び、男を乗せると娘はしかたなく屋敷へ帰ることにした。男を置いていく気には、何故だかなれなかった。彼はきっと櫻に違いない。 屋敷は驚きに満ち溢れた。当然、見ず知らずの男を連れ帰った娘に対しての反応ではあるが、もう一つ。娘は、美しかった。二目と見られぬその顔は、見違えていた。頬は薔薇色に染まり、長い睫毛がそこに影を落とす。す、と通った鼻梁、続く眉は細い三日月。大きな瞳は見るものを吸い寄せ、珊瑚色の唇から紡がれるのは相変わらずの美声。まったくの別人であるのに、なぜか皆、彼女が彼女であるとはっきりと理解した。継母は継娘を見た瞬間卒倒し、寝込んでしまった。 着替えた娘は、男を一晩中見舞った。男は翌朝何事もなかったように目を覚ました。お互い何も尋ねなかった。代わりに歌を歌った。その歌は、娘が花岸庭園でよく歌った歌だった。 二人は結婚した。椿男爵は、妻とともに彼女の実家へ越した。娘と男は、百と一つの庭と屋敷で静かに暮らした。娘は男に名を授け、男も娘に名を授けた。二人だけで、こっそりと。 ある年、男が現れて以来咲くことのなかった花岸庭の櫻が満開になった。秋だった。咲くはずが、なかった。 男はいなくなった。 便宜上櫻伯爵と言われていた男は、枯れた櫻とともに姿を消した。娘は――緑彩夫人は香輝庭以外の庭を封印した。こうして伯爵と夫人の名は、永遠に失われた。 「ご主人様!ご主人様!緑彩様!」 スオは後で侍従頭に怒られるのもいとわず、廊下を走り、緑彩夫人の部屋へ入った。驚く夫人にかまわず続ける。 「ご主人様のお名前がわかりました!」 だが、夫人は首を振る。 「何故です、緑彩様」 もう、それはあの人と共に失われたものだから、と。緑彩夫人は頬を染め息を切らせたスオに歩み寄り、頭をなでた。嗚呼、涙のせいなのか、主人の美しい顔がよく見えない。微笑んでいることはわかるのに。 「失礼します緑彩様」 と、シギが扉をノックし、主の了承を得て入室してきた。 「ダメじゃないか、スオ。また崩れた世界の均衡を戻す気か。それならもう、ここにはいられない。せっかく久しぶりに見つけた、住み心地のよい世界だったのに」夫人達と自分達は、同じ音を持つものだから。 「まったく。スオ、お前はいつもなんにも分かっちゃいない。元に戻れとは言わないが、早く思い出してくれ」 新しい入室者が、スオをたしなめる。まったく理解できていない彼に、シギはため息をつき、緑彩夫人に向き直った。 「今まで、お世話になりました」 シギは頭を下げた。おもてを上げることなく、スオと共に消えた。 緑彩夫人は、もうこの世界が長くないことを知って微笑んだ。 了. |