「イギリスに?」
夕食後、母が大切な話があると言って、私たちは居間のソファに隣り合って座った。
そして母は告げた。秋までにイギリスへ引っ越すと。
「急にごめんね、美貴ちゃん。清彦さん、もういつ帰ってくるかわからないの。だから一緒に暮らさないかって」
私の父は貿易会社に勤めている。いつも世界中を飛びまわっていて、年に数回しか会えない。実は私も小さな頃は海外に住んでいた。小学校に上がるとき――悠一郎の母が死んだとき戻ってきた。彼の世話をするためだ。
「政隆も再婚して悠ちゃんの心配もなくなったし、美貴ちゃんも今年で中学も最後だからちょうどいい頃合いだと思うの。あ、でもね、どうしても嫌だったらはっきり言っていいのよ。今までどおりの生活を続けることも出来るし、美貴ちゃんだけ残って政隆に預かってもらうことだってできるわ」
母はそうまくし立てた。娘を親の都合で振り回すのは、やはり申し訳ないのだろう。しかし私はなんとも思わなかった。いや、むしろ嬉しかった。
「いいよ、お母さん。私、イギリスへ行く」
私は正されなければならない。

それからにわかに忙しくなった。私が通っていた中学は中高一貫で受験とは縁遠かった。編入試験について母は心配していたが、私は英語を話せるし、自分で言うのもなんだが学校の成績も悪くはない。そのあたりの問題はないだろう。それよりも私が気になるのは悠一郎だった。彼は自分の想い人が遠くへ行くことをどう考えているのだろう。そう思った瞬間、私は笑ってしまった。私が実真子以外に興味を示すとは珍しい。だから、これはぜひとも実行してみよう。
悠一郎がいつものように母に会いに来たとき、私は彼に聞いてみることにした。さすがに母の前では尋ねられないので、私の部屋でだ。
「久しぶりだな、美貴子の部屋に入るの」
「そうね」
「片付け、順調みたいだな」
「一応は」
悠一郎が部屋の隅に積み上げられたダンボールを見ながら言った。おかげで部屋は随分殺風景だ。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかしら」
「どうしたんだよ、改まって」
「座って」
悠一郎はおとなしく座った。テーブルに母から持たされたジュースと駄菓子を置くと、私も座る。
「言いたくなかったら、言わなくていいわ。……ねぇ、好きな人が遠くへ行ってしまう感覚って、どんなものなの?」
「は?」
私がこんな質問をするなんて、思ってもいなかったのだろう。悠一郎の目が点になる。それもそうだ、自分でも驚いているのだから。
「そうだな、やっぱ寂しいか、な」
しばらくして悠一郎が答えた。
「それだけ?」
 そんなの、好きな人間じゃなくても友達と別れるときにだって思う。
「そうだな。後は――嬉しい、かな」
「……」
「聖子さんと離れるのはつらいけど、でもこれで諦めがつく」驚いた。彼も私と同じことを考えていた。
「悠一郎は、私と一緒ね」
「なに? 美紀子も禁断の恋でもしてんの」
「うん」
ふざけて聞いたのだろうが、私が余りにもあっさり頷いたものだから、悠一郎は固まった。
「……聞いて、いいか?」
「いいよ」
「俺の知ってる人?」
「うん」
「……」
悠一郎は次を聞かない。
「どうしたの。誰か、知りたくない?」
「そりゃ、知りたいけど」
「実真子ちゃん」
「うぇえ!?」
正直、これは面白かった。悠一郎のこんな間抜けな声、初めて聞いた。
「だから、私、あなたの、妹が、好き、なのよ」
「う、そ」
「ほんと」
「いつから」
「初めて会ったときから」
「そっか……」
悠一郎はジュースを一気に飲んで立ち上がると
「イギリス、行くなよ」
そう一言だけ言って帰ってしまった。

夏休みになった。悠一郎と実真子は部活に入っていないが、私は吹奏楽部に所属している。大会に出れるかわからないが、練習だけはしていた。
帰り道、また夕立にあった。
久しぶりに寄り道したらこれだ。きっと神様が道草せずに早く帰れと怒っているに違いない。
っそ、雷でも直撃してしまえばいいのに。
私の世界は、イギリスへ行くと決めた日から徐々に色を失っていった。実真子に会うときだけ、視覚は極彩色の世界を映し出し、この世はこんなにも美しいと思い出す。
いや、違う。私はもうずっと昔からモノクロの世界で生きていた。実真子に出会ってから、やっと色を認識できるようになった。
私は彼女が優しいのを知っている。私は彼女が素直であることを知っている。私は彼女が明るく闊達であることを知っている。そして悠一郎のことに関わると、それらは全部ふきとんで一人の女になる。私だけが、知っている。彼女が悠一郎への想いで苦悩し、この公園で一人泣いていたのを目撃したときなど、もうたまらなかった。今すぐ、今すぐ、悠一郎を――。
実真子。
早く彼女と離れなければ。
私は近い将来彼女を壊す。悠一郎が何を思ったか知らないが、彼は私の危険性をわかっていない。私が日本に留まって、いいことなど一つもないのだ。
だって、彼女の関心をかうために私は最後には悠一郎を殺すから。殺して、一生実真子から怨まれる。一生、実真子は私を忘れない。
一生。それは永遠と同じこと。
彼女は永遠に私のものになる。これ以上もない誘惑だ。
だから悠一郎、私は遠くへ逃げるよ。

雨はますます酷くなった。周りの音さえ聞こえない。景色はけぶり、どこか現実感がない。と、私の周りだけ雨がやんだ。悠一郎がまた迎えにきたのだろうか。
「なにぼさっとしてんの。さっさと帰るわよ」
「――!」
実真子、だった。
信じられない。彼女の顔にはでかでかと『不本意』と書かれていたが、そんなのどうでもいい。
「ちょっと、きいてんの」
聞いている。全部聞いている。雨の音にまぎれる前に一言一句逃さず。実真子の声はすべて私のものだ。
「ったく、もう悠兄ちゃんをあんたの迎えになんかこさせたくないのよ。だから私がわざわざこうしてきてやったの。感謝しなさいよね」
言っていることが支離滅裂だが、そんなことどうでもいい。初めてだった。実真子が私になにかしてくれたのは。嬉しい。嬉しくて涙が出そうだ。ううん、出てる。ああ、雨が降っていてよかった。
「ありがとう」
やっとそれだけ搾り出して、私は彼女の手から傘を受け取った。実真子の手は、冷えていたのにとても温かく感じられた。


それから二週間後、私はイギリスへ逃げた。

Fin.


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