薄暗い部屋で、かすかな音が不吉に揺れる。
きぃ きぃ ぃ
「父さん、母さん?」
きぃ きぃ ぃ
幼い呼びかけに応える優しい声は、ない。
きぃ きぃ ぃ
少年は、垂れ下がった両親を理解できず、いつまでも呼びかけていた。


千切れた青 結ばれた緑




ファブレ家は国内でも有数の大財閥であり、また傘下のグループ、企業も屈指の数を誇る。現会長はクリムゾン・ヘアツォーク。その長男であり跡取りであるアッシュは、ファブレ重工業の若き社長であった。財閥の御曹司である彼は、当然幼い頃から誘拐未遂など、犯罪の憂き目にあっている。単なる身代金目的から個人的な恨み等、人間不信になっても致し方ない環境に取り巻かれながらも、しかし彼はわりかし純粋に育った。
わりかしというのは、彼はそれを素直に表すことができない不器用者であるためだ。常に眉間にシワを寄せ、仕事に厳しい鬼社長などと言われてはいるが、根が純粋なことを皆よく知っている。出身も学歴も性別も不問の完全実力主義である、この社長に寄せられる社員からの信頼は厚い。アッシュから社員へも同様である。
その中でも、特に秘書であるガイ・セシルは飛び抜けていた。
「ファブレ社長、おはようございます。早速ですが明日の会議の資料で――」
朝、いつものようにスケジュール帳と書類を見ながら上司に報告をするガイの姿があった。この二ヶ月、完全実力主義のもと、めきめき頭角を現してきた彼の仕事ぶりは目を見張るものがある。陽光に透ける蜜色の髪と、涼しいアイスブルーの瞳。口元には常に微笑みをたたえ、いつも険しい表情であるアッシュとは対照的だ。
「ちょっと、何ぼーっとしてんのよ」
まだ入社して日が浅い後輩を、隣席の先輩社員が注意する。
「あっ、先パイ。だってすっごい絵になるんですもん、社長とセシル先輩。上司が美形なんて、秘書課に配属されてよかったですっ」
鼻息荒く力説するミーハーな後輩に呆れつつも、彼女はあえて否定はしなかった。確かに、二人は美形だ。アッシュの眉間のシワも、その整った容貌を損なうことはない。むしろ「若いにも関わらず落ち着いていてステキ」というのが、大半の女子社員の意見だった。
「それと、十五時から予定していた第一研究所の視察ですが、奥様が急に産気付いて、所長は本日休みだそうです。代わりの者が案内するとのことですが……」
ガイのうかがうような視線に、アッシュは気にしたふうでもなく答える。
「ああ、その件は朝電話で直接聞いた。後で祝いの品を送りたいので手配してくれ」
「かしこまりました。十九時からは、キムラスカ製鉄の新工場建設と八十周年記念パーティーがあります。――以上が本日の予定となっております」
ぱたりと秘書は手帳を閉じる。今日も忙しい一日になりそうだった。

*   *   *

キムラスカ製鉄はキムラスカ財団の中核をなす企業だ。ファブレ家との親交も深い。今日の式典にはガイも同行していた。といっても、常にアッシュの傍らには彼がいる。ガイはボディーガードも兼任しているのだ。前任が不祥事で解任され、引き抜きでこの仕事に就いた。
「皆様、本日はお忙しい中ご出席いただき、まことにありがとうございます」
主催であるキムラスカ製鉄の社長、ナタリアが壇上に上がり挨拶をしていた。今まで談笑していた人々は、その凛とした声に、話を中断し彼女を見やる。
「我が社がここまで成長できたのも、一重に皆様のご愛顧があってこそ。これからもキムラスカ製鉄をよろしくお願いいたします」
ナタリアが一礼すると、拍車が沸き起こった。アッシュも手を叩いていると、ふと彼女と目が合った。ふわ、とナタリアが嬉しそうに微笑む。
挨拶が終わると、彼女は真っ先にアッシュのものとに駆け寄ってきた。
「アッシュ!」
しかしナタリアのほころんだ顔は、アッシュの前では憂いを含んだ表情に変わっていた。
「どうしたんだ、ナタリア」
「その、言いにくいのですけれど……お知らせしなければいけないと思いましたの」
視線を合わせようとせず珍しく口ごもる彼女に、アッシュも無理にはその先をせかさなかった。そして、ようやくナタリアの口からこぼれた一つの名に片眉を上げる。
「ルークが?」
「ええ、わたくしも驚いたのですけれど。グランツ・コーポレーションの方々と一緒でしたわ」
と、ここで改めて所在無さげにたたずむ青年に、ナタリアは目をとめる。
「彼が、新しい貴方の秘書ですの?」
「ああ。ガイ、」
主の目配せに、秘書は頷いた。
「申遅れました。わたくし、秘書のガイ・セシルと申します」
名刺を差し出し頭を下げるガイに、ナタリアも快く交換に応じる。
「アッシュにこき使われて困るようでしたら、すぐにおっしゃって。わたくしからガツンと言ってやりますわ」
「おい、ナタリア」
軽口の応酬に――といっても、ナタリアが一方的にであるが――ガイは苦笑を禁じえない。キムラスカとファブレは、なるほど、聞いた通り仲がよい。
「へーえ、けっこうみんな元気でやってんじゃん?」
しかし突然の闖入者に、それまでの和やかな空気は凍り、二人の社長は動きを止めた。
「ルー、ク」
呟いた声は、はたして誰のものだったか。三人の視線の先には、朱色の髪を豪奢に腰まで伸ばし、不敵そうに笑う青年が立っていた。
「久しぶりだな、アッシュ。――もしかして、それが新しいおまえの秘書?」
「そうだ」
「ふーん?」
ルークはじろじろと無遠慮にガイを見た。しかしガイはそれを不快とも顔に表さず、涼しい表情で立っている。面白くなさそうにルークは鼻をならすと、ウェイターを呼んだ。
「俺、今はグランツのところで世話になってるから、よろしくな、兄さん」
差し出されたカクテルを、アッシュは無表情で受け取る。それ以上は動かないアッシュに、ルークはグラスを傾け乾杯とばかりに鳴らした。
「じゃ、またな」
一あおりで飲み干すと、グラスを近くのテーブルへ置き、ルークは去っていった。
「今の方が?」
「ああ。弟だ。――一ヶ月前まで、俺の秘書をしていた、な」
それ以上は口を開かないアッシュに、ガイはあえて言及しなかった。