Einleitung

脇腹が痛い。唾液が喉に絡みつく。耳障りな呼吸音。肺が、酸素を欲して胸を焼く。交互に出す足がもつれて転びかけた。
駄目だ。
今奴らに捕まったら、もう二度と外に出られなくなる。ホンモノの空を見ずに、一生を終えてしまう。話にしか聞いたことのない、青い空。格子のついた窓からは鉛色の金属しか見えなくて、存在さえ感じられなかった。
「いたぞ、こっちだ!」
一度はまいたと思ったのに、執拗に奴らは追ってくる。入り組んだ路地は逃げるのに便利だが、地の利があちらにあるとすれば別だ。
苦しい。今止まってしまったら、走れない。酸素が足りないのか、視界がどんどん狭くなっていく。嫌だ。あそこには戻りたくない。誰か。
「うわっ」
角を曲がった瞬間、人にぶつかった。声をあげたのは向こうだ。驚きに見開かれた青い瞳が、倒れていく自分を注視している。
ああ、きっとこの色が空だ。
薄れ行く意識と視界のはしでそんなことを冷静に観察しながら、最後に世界は真っ暗になった。


Ein

バチカル第七層。ここに住む者たちに、空はない。
頭上は金属のプレートが覆い、閉塞という真綿がじわじわと首を絞め、人々の気力を奪う。最下層に住まう、いないはずの人間。市民権を与えられているのは、六層までの住人だ。七層は、ワケあり者や犯罪者、行き場のない人々の掃き溜めだった。第一層の、それこそ本当の殿上人でなければ、青い空は拝めない。
バチカルこそ世界の総て。
ソトは、瘴気にまみれた死の国だ。二層から六層までの住民は、プレートと紫色に垂れ込めた空しか見ることはできない。閉じられた箱庭で、人々はただその日その日を生きることしか許されていなかった。


アッシュが目覚めると、そこに空があった。
「あ……」
白い雲と、青い空。天井いっぱいの、空の壁紙。本物でないと落胆し、浮いた心は反動で更に沈んだ。こんなにはっきりと描かれたものだとわかるのに、寝起きの頭は簡単に騙される。
と、ここでアッシュは一気に覚醒した。逃げ出した。追われていた。ぶつかった。誰に? 空色の瞳の男に。それから? それからどうなった!?
アッシュは急いで耳と尾を確認した。尾はわかる。耳は――指先に毛並みが触れた。よかった、ついている。
おそらく、自分はあの男に助けられたのだろう。この部屋は『館』とは違う。はっきり言えば、貧乏くさい。無駄に豪奢だったあそことここが違うことは、目をつむっていてもわかる。寝台も固くて、シーツもざらざらする。それでも、最下層にすればいいほうだろう。家のない浮浪者のほうが多いのだから。
驚いたことに、自分は服を着せられていた。逃げてきたときは、取りも直さずといったていで、シーツしか引っ被る時間がなかった。久々に体を覆う布の感触に――たとえそれがゴワゴワしていても――アッシュは頬がゆるんだ。
疑問といえば、そんな扱いをしておきながら、耳と尾を取られなかったことだ。普通、取るだろう。耳はともかく、尾は、びっくりするかもしれないが。服まで着せてくれたわけだし、うん、取るよな。
しかし、そんなよくわからない行動をしてくれた恩人のおかげで、自分は救われたのもまた事実だ。もしこの耳と尾がなければ、またあの監獄に逆戻りだったろう。
一応、そう結論付けたところで、タイミングよく部屋の扉が控えめにノックされた。おそらくはあの男であろうが、返事をしていいかアッシュは迷った。だがそれは無用な思考だった。返事を待たずノブが回され、少年の思っていた通りの人物が現れた。
「あれ、起きたんだな。おはよう」
「お、おは……?」
あまりにも自然に挨拶され、アッシュは返答につまった。
「どこか具合悪いところはないか」
男は自身の額と、横たわったままの少年の額に手を当る。熱はないみたいだなと呟くと、腹は減っていないかと尋ねてきた。
「いや、特にない」
「そうか? 遠慮しなくてもいいんだぜ」
「本当に、大丈夫だ。それより助けてくれて礼を言う。えーと……」
「ガイだ。ガイ・セシル」
「俺はアッシュだ」
すると男は手を差し出してきた。アッシュもおそるおそる手をリネンから出すと、暖かく握り返される。
「アッシュ、か。よろしくな。それにしても、人間以外の友達ができるなんて初めてだから緊張するよ。もし君にとって失礼なことをしてしまったら、遠慮せず注意してくれ」
「は?」
思いがけないガイの言葉に、アッシュは目が点になる。人間以外、だと? もしかしなくても、この耳と尾が本物だと思い込んでいるのかこの男は。だとすれば、先ほどの疑問は氷解する。作り物だとわからなければ、耳と尾はそのままにしておくだろう。
「誤解だ。俺は人間だ」
「え、でも耳と尻尾が生えてるじゃないか」
「耳が四つある生き物がどこにいる」
「ここに」
「……」
人間以外のヒトガタなど、魔物だけだ。こいつはもし本当に自分が凶暴な魔物だったらどうする気だ。死ぬぞ。
「とにかくっ。俺は人間で、これはツクリモノだ。訳あって外すことはできない。それだけだ」
「わかったわかった」
本当にわかってるのかこいつは。しかしアッシュは懸命にも口に出しはしなかった。言ってさらに疲れることになるのは自分だからだ。同時に、なぜそのような耳と尾をつけているのかと、追及されなかったことにアッシュは安堵した。この男は『猫』を知らない。ならいっそそのままがいい。知られたく、ない。
「ここには好きなだけいるといい。けど、見たところ君は七層の人間じゃないだろう。帰る場所があるなら、早く疲れをとって戻るといい。きっと家族や友達が心配していると思うよ」
「帰る場所なんか、ない」
ガイは親切だ。なのに急にアッシュはこの男が憎たらしく感じた。今までいた所が嫌で嫌で逃げ出してきたのだ。もし帰る場所が館を指すとしたら、そんなもの一生いらない。七層の人間からすれば、なるほど自分は恵まれているように映るだろう。ツヤのある髪。手入れの行き届いた手指。肌も荒れておらず、栄養状態がいいと一目で見て取れる。裕福な家で、大切に育てられていると勘違いするのも道理だ。
もしかして、この男はそういう見返りを求めているのかもしれない。アッシュが無事帰ることで、実家から何かしら礼がもらえると思っているから助けたのか? 騙されるな。一見人のよさそうな優しげな風貌の人間だって、自分に一体どれ程のことをしたか。
「アッシュ?」
急に目つきを鋭くさせた少年を、男は怪訝そうに見やる。
「あ……そうか。悪いことを聞いた。居場所がないなら、見つかるまでここにいてくれてかまわない。すまなかった」
ガイはアッシュの態度が硬化した理由を、帰る場所がないからであると早合点したようだ。あながち間違いではないが、ひとまず表面上はそういうことにしておこうと、改めて返答する。ほとぼりが冷めて、家に帰るのを待つつもりかもしれない。そうだ、向こうがこちらを利用するなら、こちらだって利用してやればいい。
「いや、こちらこそすまない。しばらく、やっかいになる」
しかし、この少年が滞在すると知って細められた青に、アッシュはなぜか胸が痛んだ。