まぶたのうら、くちびるのうえ、嘘つきのてのひら

アレクセイ様へ

貴方がこれを読まれているということは、俺はもうこの世にはいないのでしょう。お傍にいられなくなってしまったことをお赦しください。
このような手紙をしたためたのは、一つお願いがあるからです。
どうか、俺のことはお忘れください。
アレクセイ様に愛された四年間は、この身に余る幸福でした。そもそも俺のような身分の者が、貴方をお慕いすることすら畏れ多いというのに、まさか想いが通じるとは誰が予想できたでしょう。
アレクセイ様との思い出をまぶたの裏に描くだけでも、気持が温かくなります。どうしようもなく貴方が愛しい。むしろこの戦争でアレクセイ様を愛したままアレクセイ様のために死ねたことは、このうえもない僥倖だったのではないでしょうか。俺の一生は、貴方に愛されて終わることができたのです。
ですから俺が幸福な人生を送ることができたように、どうかアレクセイ様も俺のことなんか忘れて、新しい幸福を探してください。きっとこの世には、俺なんかより素晴らしい人間が、アレクセイ様が愛すべき方が他にいます。貴方にとって、俺は足枷でした。アレクセイ様がどんなに否定しようとも、それは事実だったのです。そして俺がいなくなった今、アレクセイ様は自由です。
アレクセイ様なら、身分で誰も悲しまない、理想の世界を作り上げることができると信じています。
アレクセイ様と愛し合うことができた俺は世界一の果報者です。そしてどうか永遠にそうであるようにさせてください。貴方が幸せにならなければ、俺は不幸になってしまいます。アレクセイ様の幸せが俺の幸せなんです。幸せになっていただかないと、最後の最後で俺は不幸になってしまいます。
俺の幸せが自分の幸せだとおっしゃったアレクセイ様なら、俺を幸せにしてください。俺が幸せになれるよう、どうかアレクセイ様、貴方が幸せになってください。

愛しています。

貴方のシュヴァーン・オルトレイン




フレンがシュヴァーンの遺書を発見したのは、星喰みを倒してから一年と半年は過ぎたころだった。
騎士団がアレクセイの遺留品兼押収品を整理していたさい、私室の鍵のかかった引き出しを開けることができた。中には精緻な意匠の小箱が一つ、大切そうにしまわれていたそうだ。だがその小箱の鍵がどうしても開かない。鍵の部分に騎士団長の公印の紋様があり、それで開錠できるのではないかとフレンのもとまで箱が届いたのだ。
部下の予想通り、公印をかざすとあっけなく小箱は開いた。それほど厳重に保管されていたにもかかわらず、中身はアレクセイ宛の封書が一つがあるだけで、フレンは拍子抜けしてしまった。もっとなにか、重要なものが入っているに違いないと思っていたのだ。
深紅のビロード張りに包まれるように安置されていたそれを、フレンは読んでしまうべきか悩んだ。いくら大逆人ですでに死亡しているとはいえ、個人的な宝物といってもいようなものを、他人の自分が好奇心だけで覗き見るのはいかがなものか。
フレンは今でもアレクセイを尊敬していたことを後悔はしていない(盲目的に従ってしまったことは後悔しているが)。だがどうしても気になるのは事実だ。宛名の筆跡に見覚えがあるだけに、余計ひっかかった。
フレンはそっと封書を手に取ってみてた。何度も読み返したのだろう、とてもくたびれている。こんなに大事に保管して、いくどとなく目を通してきた封書の差出人はいったい誰なのだろうか。
――そんなの決まっている。
瞬間、理解した。フレンはその確信に心臓がわしづかまれた思いがした。筆跡に見覚えのある? 当たり前だ。ほぼ毎日目にしているではないか。青年は確信を持って封書を裏返した。
はたして、そこには彼の想像通りの人物の名がしるされていた。
「……っ」
だというのに、なにを驚いたのか。実際にシュヴァーンの名を目にして、フレンはひどく動揺してしまった。元隊長首席以外、ありえないと分かっていたのに。動揺してしまった自分自身に、さらに動揺してしまった。
震える指先が、いけないと知りながらも封書に侵入する。現実にその名を目にして、理性という枷がひび割れた。取り出してしまったこの二つ折りの書面を開いてしまえば、粉々に砕け散る、いや、もうすでに事後だった。
それは、人魔戦争のおりシュヴァーンがアレクセイへ宛てた遺書であった。


§   §   §


レイヴンはフレンがシュヴァーンに好意を持っているであろうことを知っていた。が、知っていただけで別段態度を変えることもなく、ユーリや他の仲間と同様に接した。いや、むしろ
「やりましたねシュヴァーン隊長」
「俺はシュヴァーンじゃなくてレイヴンッ」
「はい、レイヴン隊長!」
「とほほ……」
いっそう頑なにレイヴンとしてフレンに接した。
正直、レイヴンはフレンが苦手だった。昔の――人魔戦争以前の自分を見ているようでぞっとする。もちろん、フレンがただ若さと情熱だけしかないなんて、思ってはいない。自分が二十そこそこだったときより、フレンはよほど現実的でしっかりとした人間だった(自分のほうが息巻いていたので、余計差異を感じる)。そこはきちんと理解している。理解してはいる、が。
(ごめんねフレンちゃん。俺様、シュヴァーンだいっきらいなのよね。自分の嫌いなものを好きな人に態度構えないでいられるほど、俺は人間できちゃいないのさ)
シュヴァーンの全てを否定する必要はないとエステリーゼは言ったが、だからこそ、レイヴンはシュヴァーンを否定したくて否定したくて仕方がなかった。シュヴァーンはその憧れや信頼といった、きらきらとした素晴らしいものをことごとく裏切ってきたのだから。
フレンは、ただレイヴンを慕いきらきらとした瞳で後を追ってくる。何度違うんだと叫びそうになったかわからない。どうして、知ってるのにどうして昔と変わらないでいられる。どうして彼はまだ輝ける。
フレンはレイヴンに触れることはない。ただ傍にある。
ただ、見ているだけ。ただ、いるだけ。どうしようもない苦痛だ。いっそ、抱かれてその焼けるような眩しさに灰にされてしまいたいというのに。
躯が粟立ち、皮膚が爛れ、脳が沸騰する。行き場のない醜い劣情が、思考の芯を蝕み人肌が恋しくなる。愛なんていらない。気持ちなんていらない。ただ、そこに存在しているという証を突きつけられるだけでいい。昔はそれが苦痛だったが、今はそれが世界と繋がる唯一の方法だった。変わらないのは、躯を繋げることは罰であるということだけ。
フレンとは仕事上の付き合いでしかなく、それ以上も以下もない。
そして、反対にユーリはこっち側の人間だ。手を伸ばせば、なにも言わず聞かず知ろうとせず引き寄せてくれる。
騎士団とギルドの連合を任されてはいるものの、レイヴンはもう自分はギルドの人間だと思っていた。騎士団のほうには毎日面倒臭い報告書だけを送り続けている。なにもなければそんな必要ないのに、毎日毎日毎日飽きもせず彼等は問題を起こしてくれる。ギルド側には余程目に余るような事態が起こらない限り、書面での報告はいらないので楽だ。
(ドンとアレクセイの人使いも荒かったけど、フレンはそれ以上だな)
だが、彼等の面倒を見るのは楽しいし、とてもやり甲斐がある。なにより、忙しいおかげで余計なことを考えずにすむ。
この身体が動けるうちは、今の任された役目をきちんとこなせれば、いい。それが自分のせめてもの――
「レイヴン、いいか」
報告書を書く手が止まっていたところへ、見知った少年が訪ねてきた。
「んー、どったのハリー。またやっかいごと?」
「あんたにとっちゃ、な。帝国からの召喚だ」
「げっ」
ほれ、と金属製の封缶を投げてよこされ、しぶしぶレイヴンは受け取った。
「これ無視していい? 面倒臭いし、なによりうちのはねっかえりども、残していく気になれないんだけど」
「そのはねっかえりどもは、逆にレイヴンがいなくてもちゃんとやってみせるって、元気百倍になってるぜ。安心して行ってこい」
「いやそれますます安心できないから!」
レイヴンの突っ込みをハリーは無視した。封缶のことを言うだけ言うと部屋から出ていってしまう。
しぶしぶ目を通すと、召喚状には受け取り次第すぐにザーフィアス城まで来てほしいと、フレンらしい大胆ながらも几帳面な読みやすい文字で書かれていた。

ザーフィアスを訪れるのは久しぶりだった。始めの頃はよくギルドと城を行き来していたものだが、すっかり組織が軌道に乗ってくると、レイヴンはよほどのことがない限り大概のやり取りを書類で済ますようになってしまっていた。
それでも馴染みとなってしまったレイヴンを、誰も見咎める騎士はいない。それこそアレクセイがいたころはレイヴンで城内を独りふらふらしようものなら、すぐに優秀すぎる騎士がすっ飛んできたというのに。
「こっ、これはレイヴン殿!?」
「やっほー、フレンちゃんいるー?」
男はたまたま見回り中だったルブランを発見した。フレンが執務に使っている部屋は、この角の先だ。そこからルブランは現れたので、フレンが在室かどうか知っているかもしれない。いなかったら彼に伝言を残してさっさと宿屋に戻ってしまいたかった。城にはあまりいたくない。だが、ルブランは騎士団長の名を聞くと、おやと目を丸くした。
「レイヴン殿ご存知ありませんでしたか?」
「あれ、なに? もしかしてどっかお城の外いちゃってるの?」
「いえ、フレン騎士団長は先週から歴代団長の執務室にお移りになられております」
「え――」
かつての部下の言葉に、レイヴンは息が止まりそうになる。
歴代団長。ルブランは言葉を選んだ。歴代、つまりアレクセイも、アレクセイが、使っていた部屋。
ルブランが気遣わしげに声をかけてきた。
「レイヴン殿……、」
「そ、そうだったんだ。いやー、まったく知らなかった。教えてくれてありがとうね!」
「はっ、お役に立てなによりです」
わざとらしいほど明るく答えたレイヴンに、ルブランは堅苦しく敬礼した。男は元部下へ、もう用はすんだからと軽く手を振り逃げるように歩きだした。
一歩一歩、足を進めるごとにどんどん汚泥が粘つく沼を歩いているような気持ちになる。通い慣れた廊下に出たところでこの身はすくんだ。
ザーフィアス城の廊下は明るい。瀟洒な意匠の窓枠で彩られた光が落ちて、内装の華やかさをいっそう引き立てている。だというのに、レイヴンにはそこが地下牢や暗い路地裏と変わらなく感じられた。
鉛のように重い足を、叱咤しながら前へ出す。
前へ。前へ。前へ。前へ。
そうやって、どうにかこうにか団長の執務室までたどりつくことができた。
以前となにひとつ変わらない、オークの扉。男は歩みを止めず、重厚で威圧的な観音開きの扉を手の甲で二度ノックした。そこでようやく動きを止める。扉と身体が異常に近いが、気にしてなどいられない。もし立ち止まってしまっていたら、ノックをするにも時間を要したろう。だが、音は予想に反してまったく響かなかった。
そうだ、自分はもう騎士ではない。篭手に覆われていない素手ではノックに適さない。
もう一度ノックしなければ。ああ、だがやはり手が重い。迷っている間に、眼前の木目がぐるぐると動き出した。気持ち悪い。レイヴンは払いのけるように乱暴にノックした。
「どうぞ」
中から掛かったのは、すずやかな声だった。うごめいていた木目は落ち着き、扉から威圧感が消えた。変わりに精緻な彫刻に目を奪われた。この扉はこんなに美しかったろうか。
「どうぞ、開いていますよ」
と、なかなか入ってこない来訪者へ部屋の主が再度入室を促した。
「失礼します」
男は慌てて扉を開ける。
眩しい、真っ赤な西日から眼を守るように手で覆った。残像が窓の前に人物が立っていたことだけを知らせる。
(アレクセイ様!?)
今はもういない、かのひとが窓の外からこちらを振り向いた様子、が、まぶたの裏を彩る、情景だけではない、質感、匂い、音。
『シュヴァーン、』
呼び掛けられた声、名前、ふわりと微笑んだ。ありえない。そんな穏やかな表情は、もう十年以上も前に失われている。
「すいません、今カーテンをしめますね」
レールの滑る音がして、強い斜陽の光が遮られた。
「フレン……」
腕を下ろし目を開けると、懐かしい幻もまた夕日と共に消えていた。窓辺に立っていたのは、同じ騎士団長でもアレクセイなどではなくフレンだった。
「すみません、急にお呼び立てしてしまって」
どうぞお座り下さいと、騎士は丁寧に男に席を勧めた。レイヴンは言われるがままに腰を下ろす。馴染んだソファの感触に、男は考えなしに座ってしまったことを後悔した。
「あの、レイヴン、さん?」
心ここにあらず、といった男に、青年は腫れ物に触るように話し掛けた。
「あ、ああ。すまない」
呼び掛けられて、ようやくレイヴンはフレンの顔の方向を見た。だが、それもどこか実感がないような目だ。
「……団長室」
「えっ」
「移ったんだ」
「あ、はい。周囲が、騎士団長がいつまでも普通の部屋では示しがつかないと。僕は部屋で騎士の器量がはかられるとは思えないのですが」
「それもそうだ」
ようやくまともな会話、もといレイヴンが表情を動かした、苦笑したのでフレンはほっとした。
「ええ、でもどうしてもと言われて頑なに断る理由もありませんから。ただ、承諾したら、改装した新しい部屋を用意すると言われてしまって。そんな大仰なことになるとは思っていなかったので、慌てて整理途中だった団長の部屋を片付けて引っ越したんです」
「そう、か。それこそ周りが慌てたでしょ」
「え? ええ。」
よくお分かりになりましたね。そう口にしようとして、フレンは己の失態にようやく気付いた。
「逆臣の使っていた部屋なぞ、縁起が悪い。よく周囲が許したわね」
「あ……、その」
自嘲ぎみに笑うレイヴンの表情はほの暗く、普段のひょうきんな態度が嘘のようだった。ここにいるのはシュヴァーンだ。どう対応しようか口ごもった騎士に、隊長首席がにこりと微笑んだ。
「どうしたの、フレンちゃんのことだから、説得できてここにいるんでしょう?」
表情は笑みを形作っているが、口だけだ。瞳は相変わらずこちらをきちんと見てはいない。
「はい。――むしろ、だからこそ同じ団長の部屋にすると言いました。僕の、戒めとして」
騎士は答えるとき、視線を外してしまったことを後悔した。
「うん、思った通り。フレンは、」
レイヴンの応えた声が嬉しそうに弾む。

そっくり。

驚いて視線を上げたとき、男に表情はなかった。そっくりだと、言ったときの表情ははたしてどのようだったのか。声音と同様笑っていたのか。いったい、誰が誰にそっくりだと彼は言ったのか。彼は今いつを、どこを、誰を見ているのか。
「レイヴン、さん」
「なあに、フレンちゃん」
小首を傾げる。仕草。シュヴァーンから程遠いそれに、しかしフレンはシュヴァーンをみた。
『なんですか、アレクセイ様』
失敗した。
もっと早く彼を呼び寄せていれば? この部屋でなければ? とにかく要因をあげればきりがない。彼にギルドと騎士を任せたのは、レイヴンを忙殺させるためではない。レイヴンに生きて欲しいからだ。
――勘違いしないで下さい。それは、今の貴方は生きていると己を騙しているだけだ。やはり、これを見せる必要がある。