私の総ては無駄だった。
私は最期まで彼の生きる理由にはなれなかった。
なにがいけなかったのだろう。
どこで間違えたのだろう。
どうして再び分かり合えなかったのだろう。
自然と溢れた涙が視界を滲ませる。
絶望とは、こんなに深かったのか。
今ならば、あのときの彼の気持ちがわかる気がする。
私も結局、彼と世界を天秤にかけて彼でなく世界を選んだ。
馬鹿だな。そう、最初から私たちは互いばかりしか見ていなくて、
同じ方向を向いて歩いてはいなかった。
それを知っていれば、もしかしたら――

アレクセイは迫りくる聖核を前に、静かに目を閉じた。
最期に見た色が、彼の瞳の色だったことに感謝して。



1

左腕に激痛が走った。
浮上しかけていた意識が一気に覚醒する。
「……私としたことが」
アレクセイは周囲の状況と、そして己の現状を瞬時に解析した。落下地点はほぼ目測通り。視線をめぐらし、うっそうと茂る木々とそびえ立つ崖を見上げた。そこにだらりと身を投げ出した橋の残骸が不吉に揺れている。すぐ傍に流れる川は音で確認できた。
身体の損傷は大きいもので左腕が折れたくらいか。他にもいくつか強打した箇所があるが内臓は無事だ、問題はない。
アレクセイは動かない利き腕を庇いながら立ちあがると、もう一人ここにいるはずの人間を探すことにした。
「ぐ、う……っ」
もう負担にしかならない籠手を無理矢理外す。骨折程度、治癒術で治してしまうことはできる。しかし、一緒に落ちてきた騎士が一人いる。もし彼が瀕死の重傷を負っていたら。魔力は少しでも温存しておきたい。声を上げて探したいが、魔物を引き寄せてしまう可能性がある。地道に足で探すしかない。とはいっても一緒に橋から落ちたのだ、そう離れた場所にいるとは思えない。
――魔物討伐中に、帝国騎士団長が橋から落下とは。
(情けない)
アレクセイは大いに嘆息した。
いくら部下を庇ったからとはいえ、己の力量不足が招いた結果だ。しかも、庇った隊長は無事だったが不意に飛び出してきた全く関係のない騎士を巻き添えにしてしまった。
(――いや、全く関係ないわけではない、か)
だがそれは今追及してもせんないこととアレクセイは探索に思考を戻した。
橋は崩れてしまったので救助には時間がかかるだろう。太陽の位置から察するに、落ちてからさほど時間はたっていないと思われる。魔物も指揮がいなくとも大丈夫な程度には減っていたし、落ちた騎士の容体にもよるが自分で戻ることもできなくはない。
そうこう考えているうちに、アレクセイは茂みからはえた足を見つけた。急いで駆け寄り茂みに顔をつっこむと、騎士の容体を見て取る。
まだ若い騎士だ。呼吸もしっかりしている。かすり傷程度で目立った傷は見当たらない。脂汗もかいていないし顔色も悪くないので、中身も無事だろう。
アレクセイは回復呪文を唱えた。
「……ぅ……ん……」
「大丈夫か。どこか痛む箇所があれば、すぐに報告を」
騎士の碧い目がゆっくりと開いた。表情は締まりがなく、現状を理解しているとは思えない。
アレクセイはもう一度同じ台詞を繰り返した。だが、返ってきたのは予想外の反応だった。
「く、ふ…は、ははは! 騎士団長が、藪に、顔、突っこんで……っ」
青年は、笑っていた。アレクセイの反応できず茫然としてしまった表情が、さらにおかしかったのか、男はとうとう腹を抱えた、が
「いっだだだだだだだだッ、足、足痛!」
緩んだ顔は歪み、体は苦悶に震えている。無事に見えたが、どうやら足に異常があるらしい。
「足の具合を診る。暴れるなよ」
アレクセイは青年の足に触れていく。青年は暴れはしなかったが、痛いと叫んではばからなかった。
「大事ない。両足ともきれいに脛骨が折れている。これならすぐに治せるから、少し黙れ」
しかしこんな状態でよく最初は笑っていられたな。
そう皮肉りたいのを、アレクセイはため息で流した。治癒術をかけて、ようやく青年騎士は茂みから抜け出した。
「アレクセイ閣下、先ほどは大変お見苦しい姿をさらしてしまい、申し訳ありませんでした。わたしはダミュロン・アトマイスと申します。帝国騎士団長御自ら施術していただき、一兵卒には身に余る栄誉です。まことにありがとうございました」
驚いた。
先ほどの態度が嘘のようだ。青年は深々と頭をたれ、典雅に礼を尽くした。
「いや。礼には及ばん。むしろ私のほうが謝りたいぐらいだ。己の力不足で、君をこんな目に合わせてしまった」
「めっそうもございません。すべては私の考えなしの行動が悪いのです。閣下には一点の非もございません」
「いや……」
アレクセイは否定しようとして、やめた。意味のない問答になるだけだ。それに別の意味で彼には聞かねばならないことがある。
「気づいていないわけではない。今はそんな場合ではないだけだ。城に戻ったら色々尋ねたいことがある」
「承知いたしました」
ダミュロンは先ほどと変わらぬ慇懃な態度で神妙に答えただけだった。
アレクセイの心に警戒が生まれる。
ここで多少崩れればまだ信用できたものを。アレクセイが庇うことになった隊長は、魔物ではなく人為的な原因がある。ダミュロンはそれを知っている。途中まで見過ごしていて、急に隊長を助けようとした理由はなんだ。
そう詰め寄りたいのをこらえて、アレクセイは言った。
「橋も落ちてしまったし、救援がすぐに来るとは考えにくい。自力で戻る手段も探しつつ、ここで過ごすことも念頭にいれてくれ」
「はい」
「私は周囲の状況を見てくる。君はここで待っていなさい」
「あ、いえ、私も」
案の定ダミュロンはついてくると言い出した。アレクセイはあからさまに嘆息する。
「さっきまで足が折れていたのだぞ。休んでいなさい」
「それなら閣下もです。利き腕を負傷されているに、みすみすお一人にさせるわけにはまいりません」
「これくらいすぐに治せる。君の怪我の具合がわかるまで、無駄な魔力を使いたくなかっただけだ」
ほら、とアレクセイはすぐに治癒術をかけ、利き腕を動かしてみせた。しかしダミュロンはまだ納得した表情をしていない。かといってこれ以上きちんと説得する気はおきず、アレクセイはダミュロンに背を向けた。
「では行ってくる。魔物が出たら必ず私を呼びなさい」
「お、お待ちください」
青年は咄嗟に団長の左手首を握り、引き留めていた。まさかつかまれるとは思ってもみなかったので、アレクセイは振り払うより振り向いてしまった。
「あ…その…俺、」
だが、もっと驚いたのは引き留めた本人だったようだ。顔を真っ赤にしてうろたえている。アレクセイはため息をついて了承した。
「わかった、一緒についてきたまえ」
「は、い、」
それでもまだダミュロンはまだ手首を離さない。
「せめて繋ぐのなら右手にしてくれ。これでは剣が握れない」
「申し訳ございませんでした」
安心するよう微笑んで言ったら、急にダミュロンが冷静になって手を離したので、それはそれでアレクセイは内心むっとしてしまった。

さいわいにして、二人の騎士は夜半過ぎには城に帰ることができた。自力で脱出を諦め、休んでいるところを捜索隊に発見されたのだ。
苦しいが、ダミュロンは騎士団長を助けようとしてうっかりつられて落下したことにした。面倒事は一つでも減らしたい。むしろ、大変なのはこれからなのだから。

 

  2

入室の許可のあとに現われたのは、巨大な花束だった。
足が生えた花束が、わっさわっさとこちらへ寸分の迷いもなく向かってくる。
「ダミュロン・アトマイス。出頭いたしました」
アレクセイの執務机の前でぴたりと止まると――前も見えないと思うのにどうやってだろう――花束を傾け、青年が張りのある声をあげた。
「なんだそれは」
「助けていただいたお礼です」
傾けた花束からひょっこり出た表情は、満面の笑み。先日とのあまりの態度の違いに、アレクセイは上体を引いた。
彼は、救助がくるまで果てしなく無愛想だった。日が落ちて気温が下がり、体力温存のために崖を背に隣り合って座ることすら初めは拒否していたくらいだ。
本当にこの青年、わからない。
「言っておくが、それで追及の手をゆるめると思ったら大間違いだぞ」
「まさか。本当に、これは俺の気持ちです。なんでしたら俺の気が済むためと思って受け取ってください。本当は閣下のお好きな花をお贈りしたかったのですが、存じ上げなかったもので。とりあえず店にあった全部の種類を包んでもらいました」
それでこの巨大花束か。
「花に罪はない。ありがたく受け取らせてもらおう。花瓶はないが、そこの壺なら大きさもちょうどいいだろう。水は君の後ろのテーブルにある水差しを使いたまえ」
アレクセイが指示した場所を確認したダミュロンは、意気揚々と花を壺にいける。
「それで、閣下のお好きな花はなんですか」
「は?」
「ですから、アレクセイ様の好きな花ですよ」
本当にどうしようこれ。
アレクセイはダミュロンの扱いをあぐね、額に手をあてた。
「その質問は今後も花を贈る場合に有効だが、君にそれは必要ない。質問の意図をはかりかねる」
「もー、どうしてそうカタイことおっしゃりますか。知りたいし、今後もお贈りしたいから尋ねたんです」
「ダミュロン、君の言っていることは私には理解しかねる。なぜ知りたい、贈りたいのだ」
「閣下、本気でそれおっしゃってるんですか」青年は目を丸くした。「では、お答えくださったら、お教えします」
……なんかもう面倒くさい。
「アマリリスだ」
別にダミュロンの理由なぞどうでもよかったが、アレクセイは答えるほうがこの不毛な会話を終わらせる近道だと割り切って言った。
「なるほど。アマリリスの学名は騎士の星。まさしく閣下にぴったりですね。花言葉は『誇り』。そして」
青年は花束の中から大きく咲き誇る赤いアマリリスを一輪抜き取った。
「すばらしく美しい」
ダミュロンはひざまずくと、アレクセイへアマリリスを掲げる。
「愛しています、アレクセイ様。俺と結婚してください」
女は呼吸を止めた。
思考が、理解が追い付かない。
あいし、て、る?
けっこ……ん?
そんな言葉、アレクセイ・ディノイアの辞書にはない。
アレクセイは茫然としたまま動けないでいた。ダミュロンはやっぱりな、という表情で面を上げる。
「ある程度予想はしてたけど、まさかここまではとはなぁ」
男は立ち上がると、そっと机越しに近づく。それでもまだアレクセイは反応しない。そこで、いっきにダミュロンは動いた。
「――っっっ!」
途端、部屋に乾いた音が響いた。
「き、貴様……!」
アレクセイは顔を真っ赤にして立ち上がった。勢いで座っていた椅子が倒れる。ダミュロンに突然キスされて、ようやくアレクセイは我に返った。
一方、頬を張り倒された男は、何事もなかったかのように涼しい顔で催促する。
「お返事をうかがってもよろしいですか」
「誰が貴様などとっ。御免こうむる!」
今にも机の上のペーパーウエイトを投げつけそうな勢いで女は言い切った。
でていけ! そう叫びそうになったところでアレクセイはぎゅっと口を引き結ぶ。違う、そうじゃない。そもそも、今回この男を呼んだのは事情聴取のためだ。落ち着け。落ち着け、落ち着け!
アレクセイはため息にも似た大きな深呼吸をすると、椅子を戻して身を沈めた。
「今回君に来てもらったのは、先日の魔物討伐時に不穏な動きをしていた騎士達について聞きたいことがあったからだ」
アレクセイはさっきのことをなかったことにした。
書類を引っ張り出し万年筆でがりがりと紙面を削りながら聴取を開始する。
「承知しております」
ダミュロンは言及せずおとなしくアレクセイの言葉に返答した。それはそれで気に食わないが、かといって自分から蒸し返すわけにもいかない。
意図的に窮地に立たされた隊長、彼をおとしいれた騎士。ダミュロンはたまたま友人の貴族騎士から計画を知ったが、特になにもしなかったこと。だがいざアレクセイが飛び出したのをみて、自分も勝手に体が動いていたことをよどみなくしゃべった。
「ふむ、よろしい。君の証言は捕えた彼らの証言と一致する。私が聞きたかったのは二つだ。一つは君が落下した理由だったが、まぁ、君がそうと言うならそういうことなのだろう」
アレクセイは「貴方が好きだから助けたくなった」なんてダミュロンが言わなくてよかった、と心底思った。
「もう一つは、報告義務を怠ったことだ。事と次第によっては君も共犯として厳しく処罰する必要がある」
「ああ、それですか。俺としては告げ口しても別によかったんですけどね。でも、そもそもそれで隊長の位を引きずり降ろされるならそこまでの人間ですし、失敗したあいつも結局同じでしょう」
隊長になりたいとごねていた貴族の騎士が起こした不祥事を、ダミュロンは所詮他人事と切り捨てた。
もう、これ以上彼から引き出せることはない。
「君の処分は追って知らせる」
アレクセイは退出を促した。ダミュロンは優雅に一礼すると、さっさと歩いて扉を開ける。
そこに滑り込んでいく黒い頭をみて、やっと一息ついたときだった。
「アマリリス似合ってますよ。俺、諦めませんから」
ダミュロンは顔だけ扉から出すと、こちらが反応する間もなく言いたいだけ言って扉を閉めた。
慌てて鏡を引き出しから出して見ると、真っ赤なアマリリスが髪に挿してあった。