「その、実は図書室ですすり泣きが聞こえるっていう怪談を聞いて、確かめにきたんだ」
「ほう」
アッシュの眉が跳ね上がった。まさか自分が原因だとは考えていなかったのだろう。
「なぁ、どうして泣いてたんだい? よかったらお兄さんが相談に乗るよ」
ガイはしゃがみこみ、アッシュと視線を合わせる。いらん世話だと邪険にされると思っていたが、意外にもアッシュは素直に応じる姿勢をみせた。やはりアッシュといっても十歳の子ども。すでに泣いているところを見られてしまっているわけだし、分別のある彼のことだ。意地を張るのは無意味と考えたのだろう。しかし、
「泣くことが役目だからだ。そして、殺されることも」
「な――」
予想外の言葉に、ガイは言葉を失った。
「殺される、だって」
ガイがうめいた。アッシュは自嘲気味に笑いながら続ける。
「そうだ。俺は殺される。何度も、何度も。あいつは俺が憎いという。死ねばいいと、何度も俺に剣を振り下ろす」
笑いながら、アッシュは涙を流す。
「ああ、そろそろやつが来るかな」
さっきはびくともしなかった扉に、少年の視線が向かう。
「俺を――ルーク・フォン・ファブレを殺しに」
瞬間、ガイは戦慄した。
重い音をたてながら、扉が開く。
そんな、まさか。
あの扉の向こうにいるのは、
(俺、なのか――?)
だが、それは幸か不幸か裏切られた。
入り口には、信託の盾騎士団六神将、鮮血のアッシュが立っていた。

がしゃん

「アッ、シュ……」
ガイの呟きが床にこぼれる。ここは七年前の世界ではなかったのか。どうして同じ時間に同じ人間が存在する!?
アッシュは驚愕に硬直したままのガイなど気にも止めず、青年追い越した。少しよけたので、認識をしているということはわかる。だが彼は第三者がいることなどおかまいなしに『アッシュ』は『アッシュ』の前に立つと、剣を抜いた。
「やめろ!」
考えるより先に、ガイは小さなアッシュを庇おうと、身を投げ出して少年を抱える。うまく回避できたのか、床に体を打ちつけた痛みだけで、切られた感触はない。
「大丈夫か」
少年は、なぜこの男が自分を助けるのか理解できないと、丸く開いた緑の瞳で腕の中からガイを見上げる。
「ガイ、なぜルークをかばう」
「おまえこそっ、なんでアッシュを殺そうとする!」
鮮血のアッシュが問う。ガイは起き上がると腰の刀に手をかけた。もし二撃目がきても、きちんと耐えられるように。なるべくなら、両方のアッシュを傷つけたくはなかったが、彼は本気だ。甘い考えは捨てなければならない。
アッシュはまるで理解できないと眉間のしわを深くする。彼が無造作に答えた言葉は、ガイへ突き刺さった。
「俺達が望んでいるからだ。そしてなによりガイ、おまえが望んだはず」
意識が、真っ赤に染まった。ついに割れてしまった無意識の破片が、容赦なく切り刻む。
「違う!」
「違わない。おまえは俺の死を望んだ」
「今は違うんだっ」
鼓膜を突き破って、アッシュの言葉がずるずると脳内を侵食する。復讐というとぐろをまいて、首をしめる。手足を閉じこめ、想いを奪う。
否定しても否定しても、今は違うと叫んでも、過去は、事実は変らない。確かに望んだ。望んでしまった。それだけが生きがいだった。
けれども今は違う。違う、違うんだ。
嘲るように、罪の戒めが言葉を凍らせる。ただ、チガウとしか繰り返せない。
「だからこうして、ルークを殺す」
鮮血のアッシュは無表情に言い放つ。
「やめろぉおおおっ!!」
いつの間にか『アッシュ』の目の前に『アッシュ』が立っていた。小さなアッシュは瞳を閉じ、その剣がこの身を裂くのを静かに待つ。
不吉に刃が光り、軌跡が残像となって空気を裂く。
すべてが、コマ送りのように流れて行く。
振り下ろされた罰が、肉を絶った。
「ぅぐっ」
『どうしてだ、ガイ……』
信じられないものをみる目で二人のアッシュが問う。剣は、ガイの肩からおびただしい血を流させていた。
「だから、言っただろう。アッシュに、俺は生きてて欲しいんだ」
「うそだ……」
「嘘じゃない」
アッシュの手から力が抜ける。剣が床に落ちて、耳障りな金属音が少年の心を乱す。
「うそだっ」
「ごめん、アッシュ」
ガイは頭を振るアッシュを抱きしめた。左は怪我で上がらないので右腕だけだ。太陽を中にねじりこまれているかと思うほど熱くて意識が遠のきそうになるが、それでも男は少年を離さない。伝えなければ、いけない想いがあるのだ。
「おまえに、死んで欲しくなかった。でも、馬鹿だよな。そう思ったのが、おまえがいなくなってからだったなんて」
血が流れる表面だけが暖かい。比例して、内からどんどん熱が奪われていく。
「アッシュ。俺、はおまえ、に生きていて、欲しかった」
ああ、まだ伝えたいことが沢山あるのに、唇が震えだしてうまく喋れない。急速に視界が霞んでゆく。
「いっ、しょに、」
笑いたかった。
頬も濡れて熱い。だが、これはきっと涙だ。
「ガイ、いや。ガイラルディア、やっと泣いたな」
後ろから、アッシュの嬉しそうな声が聞こえた。
「これで、もう俺が泣く必要はなくなった」
言葉と共に、背後から気配が一つ消える。
思い返せば、ホドが崩落してから十七年間、一度も泣いたことがなかった。どうしたものか、こんなにも止まらない。すべてのつかえが、流れる。おかげでアッシュの顔が滲んで見えない。
膝の力が抜けた。支えていた右腕も限界だ。
「ガイッ」
だが倒れる直前、アッシュが男を抱き止めた。
「聞け、ガイ。俺達はあと五人いる。おまえへの未練がたらたらで、第七層に昇ることを拒否して砕け散った。その言葉真実ならば、俺達を探して、見つけ出してやってくれ。ローレライも望んでいる」
意識が沈む隙間に、アッシュの声が滑りこむ。


ガイが再び目を覚ましたとき、ちろちろと陽炎う焔を抱いた譜石が二つ、無傷の左手に握られていた。

暁のオルビタ1

>>