私が死ねば、世界は救われるんだよ。

そう言って、サチは微笑んだ。
それはそれは嬉しそうに、誇らしげに。

呼吸が弱まっていくのを
瞳から光が失われていくのを
握り締めた手から力が抜けていくのを
サチの、命の灯が消えていくのを
僕はただただ泣きじゃくりながら
見ていることしか出来なかった。

そして、


――彼女は、英雄になった。



Heroizum

世界は救われた。
でも、平和じゃない。
救われたのに、なんで平和じゃないんだろう。



サチは、どこにでもいる普通の中学生だった。人よりちょっと甘えん坊の泣き虫で、料理はイマイチだったけれど、お菓子作りは上手で。そんな、ほんとにそんな、どこにでもいる普通の女の子、だった。

家が近所で、まあ俗に言う幼馴染だった僕らは、友達というより兄妹のように育った。そして当たり前のように好きになった。緩やかに、暖かく。激しくお互いを求め合う恋ではなかったけれど、僕たちは相手を大切にいとおしんだ。
田舎の小さな中学校で繰り返される、変わらない日常。その中にある、ささやかな幸せ。特別じゃなかった。平凡な中学生だった。

あのときまでは。

天使病。その奇妙な病が世界を覆ったとき、僕たちの世界は一変した。
僕は世界を敵にまわしてでも、彼女を守ることは出来なかった――。


―― I ――


期末テスト間近という、七月のある朝。起きたら僕の手には羽根が生えていた。左手首から生えたソレは十センチ程度の大きさで、色自体は純白だが、スズメかなんかの翼が取って付けた感じの、不自然極まりないものだった。
「まーさーよーしー、起きてるの。早く朝ごはん食べにきなさーい」
 まじまじと観察していたら、いつまでたっても起きてこない息子を心配してか、母さんが台所から声を張り上げるのが聞こえた。
「今行くよっ」

僕は観察を切り上げ、慌てて制服に着替える。顔を洗い、仏間へ日課の朝詣りをすませて食堂へ行くと、父さんはすでに食べ終わっていて、新聞をつまらなそうに読んでいた。
「おはよう。父さん、母さん」
「ああ、正義か。おはよう。今日はまた珍しく遅いな。体調でも悪いのか」
父さんが新聞から顔を上げ、気遣うような視線を送ってくる。
「うーん、悪くはないんだけど。ほら、これ」
 左手を見せると、父さんは目を見張った。ちょうど母さんも僕の分の味噌汁を持ってきたところで、あらまあ、なんて気の抜けた感想をもらす。

「今はやりの天使病ってやつかな」
 羽根をくいくいと引っ張りながら、僕は両親の言葉を待つ。
「一応、病院へ行った方がいいんじゃないのかしらね」
 父さんも同意見のようで、うんうんとうなずいた。
「や、いいよ。特に痛くないし、体調だって悪くないから。テレビとかでも、原因不明ってだけで、病院行ってもどうにもならないって言ってたよ。第一、今はテスト前だから学校休みたくないんだ」
「でも」
と、反論しかける母さんをさえぎって、チャイムが鳴った。
「正義君、遅刻しちゃうよー」
続けて、少し間延びした声が届く。
「ごめん、母さん。サチが来たから朝食はいいや。行ってきます」
「あっ、これ、正義」
 テーブルの上に用意してあった弁当を素早く取り、僕はサチの待つ外へ飛び出した。


天使病。そのメルヘンな名前の病気は、ここ数ヶ月のうちに世界で同時にはやりだした奇病だった。名前の由来は単純に、身体に羽根が生える病状からである。ただ羽根が生えるだけで特に身体の変調は起こらず、その症状も一日二日、長くても一週間しないうちに消えてしまう。どんなに調べても、感染経路、原因ともに不明。神経や血管は通っておらず、切断しても痛みもなく血も出ない。まったく害のないこの病気は、今世界の注目のまとだった。

「サチおはよう。ごめん、遅れちゃって」
「おはよう、正義君。どうしたの、いつもは迎えにきてくれるのに」
僕の姿を認めたサチが、心配そうによってくる。そして羽根に気付いて小さな悲鳴を上げた。
「きゃっ。ど、どうしたのそれ。まさか天使病なの」
「どうやらそうらしいんだ。困ったよ、おかげで腕時計ができない」
 僕の軽口にも、サチは硬い表情を崩さない。
「痛くないの、大丈夫なの、病院行ったほうが」
「平気平気。それより早く行かないと。遅刻してしまうよ」

サチは変なところが頑固だ。ほやほやした雰囲気の割にはしっかりしているので、しばしば驚かされることがある。だから今回も、病院ヘ行けと言い張られる前に僕はサチの手を引いて学校へ向かった。不満そうにサチはついてきたが、こういうときは気付かないふりに限る。会話らしい会話をしないまま、僕たちは教室へついた。
「はよー、国本、春川。って、おわっ。国本、おまえ羽根生えてっぞ」
孝司が早々に羽根を見つけて飛びすさる。それを合図にして、どやどやと人が集まってきた。「すげー」だの、「感覚ホントニ通ってないの」だの、「ちょっと触らせて」だの、質問攻めに合う僕に、サチは自分の事のようにおろおろする。この学校ではまだ天使病にかかった学生はいないから珍しいのだろう、隣のクラスの人間まで見物にやってきた。

「こらっ、もうチャイムは鳴ってるぞ。はやく席につけ」
担任の出現で、騒ぎはようやく静まった。江田先生は怒らせると怖いので、生徒は蜘蛛の子を散らす勢いで席に着く。先生はホームルームを滞りなくすませ、そのまま一時限目の授業にうつった(江田先生は数学の先生だ)。

休み時間になると、さすがに朝のような騒動にはならなかったが、僕の周りにクラスメイトが集まって羽根をいじくりまわしていた。あまりいい気分ではなかったけれど、どうせすぐ飽きるだろうし好きにさせておいた。サチはちらちらとこちらを見てはいたが結局話しかけてはこなかった。

昼休み、二人で昼食を食べに裏庭へ行った。普段は食堂で食べるのだけれど、食事どころではなくなることは眼に見えていたのであまり人気のない裏庭で、ということになったのだ。
木陰の石の上に座り、サチはおずおずと切り出した。
「すごかったね、みんな正義君の羽根が気になるみたい」
「ん、ああ。こっちとしては困ったもの以外のなにものでもないんだけど」
「ふふ、ご機嫌ナナメだね」
あ、今日初めてサチが笑った。
単純なことに、僕はそれから半日を苦もなく過ごすことが出来たのだった。


僕もサチも部活には入っていない。掃除当番も同じ班なので、帰りはいつも一緒だ。
あおい田んぼ。蝉が鳴いていて、空が高い。今が一番、日が長い時期だ。明るくて、とても夕方とは思えない。だから、別れるのがつらい。もう少し一緒にいたいと思ってしまう。
「じゃあまた明日ね、正義君」
いつものようにサチの家の前まで送って、それでさよなら。でも、なんだか今日はそれで終わる気になれなかった。

「なぁ、今度の週末あいてるか。だったらどこか行こう」
「う、うん。いいよ」
突然の誘いに、サチは目を白黒させる。でもすぐに笑顔になって「正義君と出かけるの、久しぶりだね」とはにかむ。その姿がどうしょもなく可愛くて、僕はたまらずサチを抱き寄せてしまった。
「わっ。ま、正義君っ」
「あ、ご、ごめんっ」
サチの慌てた声で我に返った僕は、急いで手を離す。その様子が可笑しかったのか、サチは小さく吹き出して、僕は情けないやら恥ずかしいやらで、今度は一刻も早く帰りたくなってしまった。

「いいんだよ、正義君。ちょっと今のは急だったからびっくりしたけど、でも、抱きしめてもらえるのは嬉しいの」
だからもっと抱きしめて。
僕はおかげで、思う存分サチをこの腕に収めることが出来た。ついでにキスまでしてしまって、さらにサチを仰天させた。そりゃキス自体は初めてじゃなかったけれど、サチの家の目の前だし公共の場(道路)でもあったわけで、お互い顔を真っ赤にしながら別れたのだった。

思えば、これが最後だった。一緒に帰ることも、サチを抱きしめることも、キスすることも。


週末の約束は、永遠に果たされることはない。

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