―― II ―― 次の日、サチを迎えに行くと、サチにも羽根が生えていた。僕自身、実際に見たわけではないが、背中に一対、まるで翼のように手のひら大の羽根が生えているとサチは言った。ちなみに僕の羽根は起きたら無くなっていた。サチとおそろいでなくなって、少し寂しい。 昨日と違って、余裕をもって学校へつく。すると驚いたことに、生徒の大半は羽根つきだった。自分の組なんか全員天使病で、もしかして僕がうつしたのかと、変に勘ぐってしまう。 「羽根が生えていようがいまいが、授業は通常通りだぞ」 額からにょっきり生えた羽根を揺らしながら、江田先生はホームルームを始めた。クラス全員が笑いをこらえようと必死だ。もちろん僕も。サチなんか、我慢しすぎて涙が浮かんでいる。 拷問のようなホームルームは結局生徒の大爆笑によって幕を閉じ、江田先生は仏頂面で教室をあとにしたのだった。 二時限目の休み時間、僕はサチの異変に気付いた。何かを耐えるように、自分自身の身体を抱きかかえている。呼吸も荒い。 「サチ、保健室行くぞ」 大丈夫か、なんて聞かない。きっとサチは平気だと突っぱねるから。するとサチは、僕が抱きかかえようと伸ばした手を叩き落とした。 「触らないでっ」 今までこんなにきつく拒絶されたことはない。僕はどうしていいかわからず、立ちすくんでしまった。 「あ、その、ごめん。そんなつもりじゃ、なかったの。でも、大丈夫だから、ほっとい、て」 ぜいぜいと息をするサチ。そんな、それのどこが大丈夫だっていうんだ。僕は無理やりにでもサチを保健室に連れていこうと決心し、孝司に協力してもらってサチを抱えようとした。 「やっ、だめぇ」 そして。 孝司の手の甲から生えた羽根がサチに触れたとき、それは起こった。 孝司とクラスの生徒全員がサチの悲鳴とともに昏倒した。いや、この組だけじゃない。なにかいっせいに倒れる音と(決まっている、人間だ)悲鳴が、学校中から聞こえてきた。 苦しそうに身をよじりサチは僕の腕を離れる。 僕は、見た。 サチの制服がうごめくのを。 肩胛骨の部分が盛り上がるのを。 耐え切れず生地が裂け、純白の大きな翼が生まれるのを。 「いやぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」 サチの絶叫が、生まれたての赤ん坊のように聞こえた。 ソノ現実離レシタ光景ヲ、美シイト感ジダ僕ハ異常ダロウカ。 * * * その後のことは、よく、覚えていない。オトナがたくさん来て、サチを連れて行ってしまうのを、遠のく思考の端で見た。 僕は現場にいて無事だった唯一の人間ということで、こうして今職員室で事情聴取されている。江田先生の姿は見当たらない。倒れた生徒や先生は、急きょ体育館に毛布を敷いて寝かされているそうだ。しかも意識を失った者はこの学校の関係者だけでなく、街中、いや、国中、世界中にいるという。そんなこと言われても、僕には、よく、わからない。 いっこうに明瞭な答えを聴き出せないことに業を煮やしてか、いったん僕は帰宅させられることになった。他の残った生徒は、まだ卒倒者を運ぶ手伝いをしており、それが終われば放課らしい。学年主任の先生の車で、僕は家路に着いた。 事前に連絡がいっていたのだろう。チャイムを鳴らしたとたん、母さんは玄関を開け僕を迎え入れた。 「ああ、正義。どこも悪いところはないの。痛いところは。ほんとうに、何があったの。母さん心配したんだよ。もう、もう二度とあんな思いは――」 矢継ぎ早の質問を浴びせられても、僕は答えることは出来ない。 だって、よく、わからないんだ。 母さんと先生はなにか言い交わして、僕は自分の部屋に寝かされた。 チッ チッ チッ チッ チッ チッ 蛍光グリーンに光る秒針が、また一周した。壁にかかる時計は、三時十七分を指している。僕は一睡もしていなかった。ただひたすら時計だけを見つめ続けている。 思考は麻痺して、きちんと状況を、今を、理解できているのかわからない。 よく、わからない。 眠りという救いさえ、訪れてはくれなかった。 僕はどうしょもなく浮遊している。 朝が来て、昼になって、夕方になって、また夜が来た。 静かだ。秒針の音がしなければ、気が狂ってしまっていたかもしれない。 いっそ、狂えばいいのか。それとももう、狂っているのか。 チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ ………………………… ……………… …… 雪が降っている。 ふわ ふワ フわ フわ あれ。雪の割には、固まりが大きい。 くる クル くる クる そうだ、羽根だ。白い、大きな。 羽根が降り積もって、 僕の視界を、 身体を、 心を、 犯す。 やがて白い羽根は翼になった。 僕は魅せられるままに手をのばす。 翼は冷たくて、体温で溶けてしまった。 溶けて、涙になった。 えぇーん えぇーん 女の子が泣いている。 こんなに寒い雪の日に、上着も着ずに、おまけに裸足。 「風邪を引いてしまうよ。おウチはどこだい。送るから」 女の子は、顔を上げ、赤くはれ上がった目で僕を見上げた。返事をせず、じっと見つめている。どうやら少し警戒しているようだ。 「ね」 僕は緊張をといてあげようと微笑えんだ(ぎこちなくならないように、せいいっぱい頑張った)。成功したようで、手を差し出すと、女の子はおずおずといった感じで握り返してくれた。 「どうして泣いていたんだい、よかったらお兄さんに話してごらん」 さすがに裸足の子を歩かせるわけにはいかなかったので、だっこして進む。白しかない世界だけど、僕にはなぜか、そこが道であるとわかった。 「****くんがね、カゼひいちゃったの。苦しいんだって。ゼィゼィいっててすごくたいへんそうだった。わたしのせいなの。わたしが悪いから、だからおしおきされなきゃいけないの」 女の子はそう言って、また泣き始めてしまった。よく聞き取れないところもあって、僕はまったく要領を得れないし、これじゃあまたもとの状態に逆戻りだ。 「よしよし。ほら、泣かないで」 体を揺らして、女の子をあやす。慣れないことでぎこちなかったが、なんとか女の子は泣きやんでくれた。 「きみは笑っているほうが可愛いよ。さ、涙をふいて」 我ながらキザなセリフだと思ったが、女の子はにっこり微笑んでくれた。 「****くんもね、わたしが泣いてると、いっしょうけんめい笑わせようとしてくれるの」 なんだろう、肝心のところでノイズが混じる。 「**は笑っているほうがかわいいよって。笑ってる**が大好きだって」 鼻をすすりながら、たどたどしく女の子は話し出した。 「……****くんはわたしのせいでカゼひいちゃったの。せっかく****くんから仲直りしようって待っててくれたのに、わたしいじはって****くんをずっと雨の中にいさせちゃったの」 もし、もし私が忘れ物なんかしなければ。由司さんが届けようなんて言い出すこともなかったのに。 「だからね、わたしちゃんと****君に謝ったの。ごめんなさいって」 私がっ、私のせいで由司さんは死んでしまった。 「でも**のせいじゃないよって、僕が勝手にいただけだからって言うの」 どうして誰もはっきり私を責めてくれないの。おまえが由司を殺したんだって。 「だから、私」 自分で自分を罰するしか、ないじゃない―― サチッ 勢いよく布団を撥ね退ける。 じったりとした、嫌な汗が全身から吹き出て息が苦しい。心臓が、まるで百メートルダッシュしたあとみたいだ。 行かなければ。 なんてことだ。僕が、サチを忘れるなんて。あのとき、兄さんが死んだときに、一生護るって誓ったじゃないか。 サチ。 サチ。 サチ……ッ。 携帯と財布を引っつかんで、僕は夜の街に飛び出した。 |