Distorsion.
人が通り過ぎていく感覚。電車からホームに降りて邪魔にならない位置で立ち止まる。背後からたくさんの人間が私を避けて階段を上がり改札へ向かっていく。誰も私を気にかけない。避けるために認識されるただの障害物。 世の中に取り残される寂しさと、それでも存在しているという安心感。この感覚が、私は好きだ。私を落ち着かせる。 駅を出てもまっすぐ家に帰らず公園に入った。日が傾きかけ、オレンジ色に染まるジャングルジムやシーソー。人はいない。私はブランコにこぐでもなくただ腰掛ける。 突然あたりが暗くなった。見上げれば黒い雲が夕日を覆い隠し、空を埋め尽くしている。夕立だ。そう思った瞬間、冷たい雫が身体を打った。 公園脇の道を見ると、サラリーマンが鞄を頭の上に掲げて走っていた。しかし私は突然の雨に慌てるでもなく、そのままブランコに座り続けている。夏の暑さが引き、身体が冷える感覚が気持ちいい。足元を見ればもう水溜りが出来ていた。広がる波紋が靴に当たって消滅する。 どれぐらいそれの様子を見ていたろうか。近づいてきた足音が背後で止まると、私の周りだけ雨がやんだ。 「おい美貴子、聖子叔母さんが心配してるぞ」 「悠一郎……」 傘を差し出してきたのは従兄弟だった。 「傘持っていかなかったから、迎えにいってくれって。駅にいなかったからもしかしてと思ったら、案の定ここだったな。ったく、携帯くらい出ろよ」 悠一郎はひとしきり文句を言って私の手に傘を握らせた。 「ほら、帰るぞ。このままじゃ風邪いちいまう」 私はおとなしくイトコについて家に帰った。 悠一郎は母の弟、政隆さんの子だ。彼の母親は八年前に鬼籍に入っている。忙しい政隆さんにかわって、私の母が悠一郎の面倒をみていた。だから悠一郎は家族のようなものだ。同い年なので兄だか弟だかわからないが、感覚的に彼は私の兄のようなものだった。そう、半年前までは。 政隆さんが再婚して、彼は今新しく出来た一つ下の義妹と一緒に四人家族で暮らしている。だからもう、彼は私の家に住んではいない。しかし時々ふらっと遊びに来ては、私の母とお茶を飲んだりしている。私達の家はすぐ向かいにあったりする。 今日迎えに来たのもそんなふうに母と会っていたからだろう。彼としても、雨の中妹のような私を迎えに行くことに何の不自然さも抱いていないようだった。きっと母は今頃お風呂を沸かして夕食を作っているだろう。 「ほい、到着。伯母さんがお風呂焚いておくって言ってたから早く入れよ」 「わかった」 玄関に上がるといい匂いがした。全部予想どおり。 「悠兄ちゃん!」 しかし予想外のこともあったようだ。 「もう、夕食の時間だから叔母さんちに呼びに行ったらいないんだもん。ずっと待ってたんだよ!」 悠一郎の義妹、実真子。再婚相手の連れ子だ。その彼女が甲高い声を上げながら廊下をかけてきた。 「ごめんごめん。美貴子迎えに行ってたんだ」 「知ってるよ。実真が言いたいのはそんなことじゃない。もう、何度言ったらわかるのっ。お兄ちゃんのおうちはここじゃない!」 「実真子……」 ヒステリックにわめく義妹をどうやってなだめようかと、悠一郎は悩んでいるようだ。 「あんたもよ。悠兄ちゃんの妹は実真なのっ。お兄ちゃんに近づかないでって前にも言ったでしょ!」 「実真子っ、なんてこと言うんだ」 悠一郎が血相を変える。 「ごめんな美貴子。実真子にはよく言っておくから」 「大丈夫よ、全然気にしてないから。そんなに怒らないであげてちょうだい」 「なんですってっ、あなた馬鹿にしてるの!?」 悠一郎はまだ叫び続けている実真子を引きずり、母にも届く大きな声で「お邪魔しました」と言って帰った。 私は実真子が好きだ。 半年前に、初めて会ったときからずっと。 実真子は私が嫌いだ。 半年前に、初めて会ったときからずっと。 実真子が悠一郎を好きなのは明白だった。だから私が気に入らないのだろう。学校でもことあるごとに突っかかってくる。私はそれがとても嬉しい。無視されるよりよっぽどいい。 ――私の気持ちは、決して通じることはないのだから。だから彼女が私を嫌いでも関係ない。彼女が私に感情をぶつけるたび、私はもう何も考えられなくなる。感激に頭が真っ白になって思考が停止する。 彼女の感情がもっと私に強く向くように、私は悠一郎と会うのをやめない。聡い彼のことだ。私が実真子を嫌いでなく、むしろ好いているからだと気付いている。だが、その好きは、特別な好きであるとまで考えてはいない。それはそうだろう。彼女も私も女なのだから。 そして私も気付いていた。悠一郎にも好きな相手がいる。それは私の母、聖子だった。悠一郎は私が彼の気持ちを知っていることはわかっていた。しかしお互いの関係は変わらない。 一見平和な私たち二家族の内部のいびつさは、私にとって最高に居心地のよい場所だった。 私は、壊れているに違いない。 ――だが唐突に、その居心地のよい世界は失われた。 |