涙なぞ、とうに枯れたと思っていた。
「このたびは大詠師ご就任、まことにおめでとうございます」
ローレライ教団の礼拝堂で、ガイはトリトハイムに膝を折っていた。
ローレライが解放されてから一ヶ月。世界は目まぐるしいほどの早さでうつろっていく。預言、そしてレプリカの処遇。この二つが中心となって、オールドラントは変化の渦中にあった。教団の再編もその中の一つで、預言なき今、そもそも預言を司っていたローレライ教団の意味が問われている。
導師イオンと、ヴァン、モース、リグレット、シンク、そしてアッシュの詠師ら五名。一度に大勢の幹部を失い、残った詠師はトリトハイムとカンタビレのみ。水面下でユリアシティが実権を握っていたとはいえ、人々に根ざしていたのは教団のほうだ。新しく大詠師を置き、また混乱を収拾させるためには他にも人間が必要だった。導師の処遇は、それからだ。
「どうぞかしこまらず、ガルディオス伯爵」
トリトハイムの穏やかな声が、ガイをうながす。立ち上がった使者に微笑むと、トリトハイムは続けてガイの言祝ぎを受け取る。
「それにしても、新年の大祭に間に合って陛下は胸を撫で下ろしておいでです。いかに預言がなくとも、新しい一年を迎えるには区切りがいるというもの。民から信頼の厚いトリトハイム大詠師の言葉なら、皆喜ぶでしょう」
「ありがとうございます」
今までこういった口上を受け取るのはモースだったため、トリトハイムはどうも落ちつかなそうであった。その様子が、変っていないなとガイをまた安心させる。
「もう少しでグランツ詠師もまいります。彼女相手には、昔と変らない態度で接してあげてください」
「もちろんです。むしろそうでないと怒られそうですからね」
ティアもまた、先の戦いの功労から詠師職についた一人であった。本人は嫌がっていたが、アニスが説得したのだ。曰く「ティアの権力で、早くアニスちゃんを導師にしてくださ〜い☆」。少女の願いどおり、導師に押してやるためか、はたまたそれを止めるためか真意のほどはわからないが。
「あら、ガイ。それは心外だわ」
噂をすればなんとやら。トリトハイムの言葉どおり、ティアが礼拝堂の扉から現れた。
「ここは公式の場ですもの。きちんとするのは当然のことよ」
すれ違いざま、ティアはにこりとガイに微笑みかける。
「君も相変わらずだね」
「あなたもね」
微妙にティアから遠ざかろうとするガイに、少女はため息をついた。
「私はまだ仕事があるけれど、今日ガイが来るってことはアニスにも言っておいたから、後でちゃんと挨拶しに行ってあげてね」
「言われなくても、そのつもりだったさ」
陛下もわかって、ゆっくりしてこいとおっしゃられたしね。そう付け加えて、ガイは笑った。
世界は、変っていく。
立ち止まることを、振り返ることを許さない。
定められた明日ではなく、過ぎ去りし昨日でもなく、真っ白な未来を、その自由と不安に押しつぶされないように、ただがむしゃらに前へ進むことで平衡を保っていた。
扉を開けた瞬間とびついてきた少女に、青年は理解するより先に条件反射で叫んだ。
「もー。ガイってば、まぁだ女性恐怖症治ってないの?」
「今みたいに突然抱きつかれたら、誰だって驚くって」
呆れた言葉とは裏腹に、アニスの声は楽しそうだ。
まだ、ひとつきだ。ひとつきしかたっていない。なのにお互い「変らないな」などと思うほど、あの戦いが遠い昔のことのように感じられる。
「今日は仕事ないのか?」
「ガイが来るからって、特別に暇をもらっちゃった。っても、導師守護役なんて、もうあってないようなもんだし?」
「あ、すまない……」
ガイは己の軽率さを恥じた。しかしアニスは気にしたふうでもなく続ける。
「そんな辛気臭い顔しないでよう。今はティアのお手伝いしてるから、暇を持て余してるわけじゃないし。それより座って座って。もうすぐフローリアンも勉強が終わって来るから、みんなでお茶にしよっ」
立ち話もなんだからと、アニスはガイを部屋の中へ招く。
「じゃあ、ちょっと準備してくるから待っててね」
何かあったら、他の教団員が来てくれるようにしておくからと言い残し、アニスは給湯室へ向かった。
そして、程なく少女の言った通り、フローリアンが姿を表した。
「ガイさんこんにちは」
「こんにちは、フローリアン。元気にしていたかい?」
礼儀正しくお辞儀をする少年に、ガイも席を立って挨拶する。
「うん。勉強はいやだけど、アニスがよろこんでくれるから、毎日がんばってるよ」
「ははは。そうか、えらいぞフローリアン」
頭をなでると、少年は誇らしげに胸を張った。と、そこで少々荒いノックの音が扉の下方から響いた。
「ガイ〜、開けて〜」
「アニスだ!」
くぐもった声に、フローリアンが一目散に扉を開ける。
「うわぁ。フローリアン、もう来てたの」
目を丸くする少女に、少年は嬉々として答える。
「オリバーがね、ガイさんが来るからって、少し早く終わらせてくれたの」
「そっか、パパもたまには気がきくじゃん。さ、フローリアン、ガイにお茶をいれてあげて。この間習ったから、出来るよね?」
「うんっ」
アニスの両手を塞いでいた盆を受け取ると、しっかりした足取りで少年は茶器をテーブルの上へ置く。まだ砂時計が落ちきっていないので、フローリアンは先にケーキを配る。ガイはその様子を感慨深く見つめていた。
「どお? フローリアン成長したでしょ」
「ああ」
アニスが小声でガイに言った。まるで自慢の息子を披露する母親のような少女に、ガイも自身を重ねてしまう。
「昔を、少し思い出すよ」
「ガイ……」
二人の視線の先には、早く落ち切らないかと砂を見つめる少年がいる。しかしアニスもガイも、本当に見ているものは別々の――まったく違うモノだ。
「フローリアンは、イオン様じゃないよ」
「もちろんだ」
「フローリアンの名前が、たとえ『イオン』でも、あたしはイオンっていう名前のフローリアンとして接する」
「アニス、一体急にどうしたんだ」
「もう、ガイの馬鹿!」
「アニス?」
突然罵られ困惑する青年の問いには答えず、少女はフローリアンに駆け寄る。
「ごめん、フォーク忘れちゃったから取りにいってくるね。お茶は先に飲んでていいから」
「うん、わかった!」
アニスは一度も顔を上げぬまま部屋を出た。
薄暗い廊下をアニスは歩く。足元の四方に分裂した影が、自分を責めているようだ。普段は乳白色で優しく通行人を見守っている光源であるが、気分一つでこんなにも印象が変ってしまう。
(あーもーあたしってば最低! ガイに文句言ったって始まらないのに。……でも、ガイだって)
自分も、ガイ同様認めたくないものの一人だ。
けれど、彼はまた微妙に違う。事実と真実に耳を塞いで、仮初めのゲンジツを生きている。いや、生きているのか。ただ息をしているだけだ。
『昔を、少し思い出すよ』
そう言ったガイの眼が、忘れられない。
フローリアンを見ていれば、嫌でもイオンを思い出す。しかしそれは仕方のないことで、けれどもアニスはフローリアンはフローリアンであると最初から知っている。イオンを思い出すことが悪いのではない。思い出しても、イオンを求めないことが重要なのだ。わかっていても難しいことである。気を抜くと、無意識に昔の、イオンといたころの自分に戻ってしまう。ルークのように、元々別の人間であるとわからなければなおさらだろう。
フローリアン。イオンレプリカ。ルークレプリカ。オリジナル。
アッシュは死んだ。それが事実。けれど、ガイはアッシュそのものを殺している。故意にアッシュを意識しないように無意識に制御している。
(ガイは、アッシュを盲点にしてるんだ。ルークを思い出しても、そこで終わり。ちゃんと受け入れないと、いつか破綻しちゃうよ)
アニスは自分の被害妄想でなければ、どんなにいいかと思った。
ガイがアッシュをどう思っているかはナタリアから聞いていた。キムラスカとは、レプリカ問題で教団と往々にして行き来がある。ティアとナタリアが話し合いをする場に、自然とアニスもいた。ナタリアはきちんと彼女なりにけじめをつけている。けれども、ガイが心配だと王女はため息をついていた。改めた決意のやり場を失って、それでもわたくしたちに普段と変らず接する姿が痛々しいと、なにより肝心なことに結局気付いていない。そう、以前会ったときの様子を話していた。
こればかりは、ガイ自身がどうにかするしかない問題だ。だが、仲間として何かできないかとアニスは思うのだった。
|