三人分の紅茶を注ぎ終わると、フローリアンは椅子を引き客の着席をうながした。
「どうぞ、めしあがれ」
「いただきます。――うん、うまいよフローリアン」
さっそくひとくち口に含むと、こうばしい香りが鼻腔を満たした。続けてもうひとくち飲むと、胃の腑からじんわりと暖かな香りが広がる。
「よかった。まだおわかりあるから、たくさん飲んでね」
「フローリアンは飲まないのか?」
「アニスが来るまで待ってる。ガイさんはお客さまだから、いいんだよ」
「フローリアンは、本当にアニスが好きなんだな」
「うんっ、大好き! でも、アニスはぼくがそう言うと、うれしそうに笑ってくれるんだけど、ときどき目が悲しそうなんだ」
「……」
うなだれる少年に、ガイはかける言葉がとっさに見つからなかった。そんな客人の様子を察してか、フローリアンはすぐにまたいつもの無邪気な表情に戻る。
「そうだ、ねぇお茶をのみ終わったら、三人で遊ぼう!」
「もちろんいいとも」
ガイは子供に気を使わせてしまった己を恥じた。優しいフローリアン。いつか本当のことを話しても、彼が彼を表す名のままでいられるようにと、ガイは祈らずにはおられない。
「ぼくね、かくれんぼが一番好きなの。教団のなかも覚えられて、えーとイッセキニチョウ? だから。この前も、また新しいところを覚えたよ!」
「そうか。じゃあケーキ食べ終わったら、腹ごなしにかくれんぼでもするか」
「やったぁ、ありがとう」
「ごっめーん、おまたせ☆ フォーク持って来たよ」
フローリアンが手を上げて喜んだところに、アニスが息せきって入室してきた。
「アニス!」
フローリアンの笑顔が何倍にも輝く。さっそくアニスから受け取ったフォークを配り、少年はガイにお茶のお代わりをいれた。
「いただきます」
ようやくお預けを喰らっていたケーキをほお張ると、フローリアンはアニスに先ほどのかくれんぼの話をする。
「うんうん。わかったから、ほら、食べながら話しちゃ駄目って言ったでしょ」
「あっ、ごめんなさい」
よほど三人で遊べるのが嬉しかったのだろう。アニスにたしなめられて、ようやくフローリアンは落ち着いた。
「ごめんね、ガイ。ハタチ越してるのにかくれんぼなんてさせちゃって」
「それは嫌味か」
「べーつにぃー? ――なんてね。うそうそ。こっちこそつき合わせちゃってごめんね」
戻ってきたら普段どおりのアニスに、ガイは安心する。
軽口の応酬に、始めフローリアンは目を白黒させていたが、二人が笑っていたのでそういうものだと納得した。
「いや、気にしなくていいよ」
「ありがとう。でも気をつけてね。最近教団内で新しい怪談スポット誕生したんだから」
アニスが神妙な顔つきで厳かに言う。しかし頬が笑いを堪えているのかヒクヒクと痙攣していた。
話によると『開かずのトイレ』『数えると段数が変る階段』『ダアトがさまよう空中回廊』『血の涙を流すユリア像』『夜な夜な訓練所に出没しては勝負を挑む教団兵』などなど、教団内はそういう話にこと欠かないらしい。
「でぇ、今回加わったのは『子供のすすり泣きが聞こえる旧図書室』でーす。隠れるときは注意してね。これも噂だけど、かくれんぼしててそのまま見つからなかったことが……」
アニスの顔の下からスポットライトが当たる。フローリアンは神妙に喉をならした。ガイはガイで話半分である。
「もぉ、ガイってば怖がってくれないからつまんなーい」
「まさかティアをそれでいじめてないよな」
「失敬な! いじめてなんかいませんよう」
ティアは怪談が苦手だ。キムラスカの王女ならともかく、反応を楽しむには絶好の相手である。
「アニス、今の話本当なの」
「だーいじょうぶ、もし何があっても、フローリアンはこのあたしが全力で守るから」
アニスはどんと平らな胸を叩く。
そんなたわいもない話をしていると、あっという間にテーブルの上には空の食器しかなくなった。
「じゃあ、片付けついでにあたしが鬼になるよ」
二人が隠れているあいだに、ティーセットを戻してくるとアニスが提案する。二人は少女の提案を受け入れ部屋をでた。
「ガイさんこっちこっち」
「いたた。急ぐのはわかるけど、廊下を走るのは危ないって」
手を引きながら先を駆けるフローリアンを、ガイはなんとかいさめようとするが、少年はいっこうに速度を落とさない。小さな体のどこにそんな力があるのか、甲に食い込む白い指が振りほどかれることを拒む。
扉をくぐり、階段を降りる。
また扉をくぐり、階段を降りる。
見覚えのある道順に、ガイはおののいた。
「フローリアン、まさかさっきアニスが言ってた旧図書室に向かうつもりなのか!?」
「そうだよ」
フローリアンは降り向かない。いつも通りの明るい返事なのに、なぜかガイは違和感を覚えた。
「そりゃあ、ああ言われれば隠れようとは思わないだろうから、旧図書室にいれば裏をかいて見つかりにくいかもしれないが……」
「助けてあげて」
「え?」
最後の扉が開く。お互い旧図書室に一歩入ったところで、フローリアンは止まった。
「フローリアン、一体なにを」
「ガイさんにしか、できない」
いぶかるガイの手を離したかと思うと、次の瞬間フローリアンは扉の外側に立っていた。ガイは咄嗟に手をのばす。それを遮って、重い音と共に目の前は遮断される。
ガイは、旧図書室に閉じ込められた。
「フローリアンッ、いたずらにもほどがある」
外青年はに届くよう声を張り上げた。しかしフローリアンは答えない。いや、それどころか気配さえない。鍵はついていなかったはずなのに、なぜか扉は開かなかった。外からカンヌキでもかけてあるのだろうか。いや、しかしそんなものさっきは見当たらなかった。
「フローリアン!」
……ぇ――ん
「っ、」
青年は息を呑んだ。
自身の声にかぶさって聞き漏らしそうになったが、確かに今一瞬、かすかではあるが何か聞こえなかったか。
叫んだ声が響いたにしては、声の質が違ったと思う。
正体を見極めようと、ガイは耳を澄ました。
呼吸の音。心臓の音。己以外、空気を震わせるモノなど、ここにはいない。埃の積もる音さえ聞こえそうなほど、静寂が詰め込まれた空間。
そこに
――う……ぐすっ
聞こえてきた
――うぅっ
すすり泣く声、が。
「誰だ!」
「ひっ」
ガイが図書室中に響くように誰何すると、小さな悲鳴が上がる。同時に、ナニカが見えない音を立ててはまった。
「そ、そっちこそ誰だっ」
逆にすすり泣きの主と思えるモノから問いかけられ、ガイは驚く。次に取るべき行動が咄嗟に思いつかない。知らずに強く握り締めた拳が震える。額から頬に、汗が流れた。
ひた、ひた、と少しづつ足音が近づいてくる。
首から下がうまく動かない。骨が軋む。それでも無理矢理体を、視線を足音に向ける。
あと三列、
二列、
一列。
「――ッ」
そして、本棚影から現れた人物に、ガイは声を失った。
(アッシュ……!?)
炎のごとき赤い髪。エメラルドを重ねた瞳は深い緑。歳こそ違えど、彼は確かにアッシュだった。
そう。
外見が十歳の――ガイが最後に見たルーク・フォン・ファブレであっても。

かしゃん

意識の裏側に亀裂が走る。
「答えろ。おまえは何者だ」
少年の目と鼻が赤い。尊大な態度は生来のものか、はたまた照れ隠しか。身につけているのは黒い教団服。ということは、ヴァンに攫われたあとのことだろうか。
「どうした。答えぬと言うことは、なにかやましいことでもあるのか」
「違う、俺はガ――っと」
ガイは咄嗟に口を塞いだ。ついガイ・セシルと名乗ろうとしてしまっていた。使用人根性が板につきすぎたのか、昔の主の命令は侮れないといったところか。何が別の名を考えなくては。
「ガイラルディア・ガランだ」
さすがに苗字はまずい。父親が滅ぼした一族だ。運が悪ければ息子の名前も覚えているかもしれないが、よい偽名が思いつかなかったというのが正直なところだ。それに、彼は賢い。へたな嘘など、すぐに看破されてしまうだろう。
「そうか、おまえはガイラルディアか。――なぜこのような場所にいる」
「相手に名乗らせて、自分は名乗らないのかい?」
なぜ、と問われてもガイ自身よくわかっていなのに答えられようもない。答えにくい質問には質問で返すのが一番いい。それに――彼が自らアッシュであると名乗れば、信じがたいことだが、ここは七年前の世界ということになる。
「俺の名前なぞ、どうでもいい」
まだアッシュと名乗ることは、彼の矜持が許さないのかもしれない。しかしガイは知りたかった。どうしてもこの少年の名前を。アッシュであると確信はしている。だが、やはり本人の口から聞かなければ。
「名前がわからないと、困るだろう?」
「まったく、しょうがないな」
また同時に、相手に名乗らせて自分は名乗らないというのも、彼の貴族としての――たとえ、もう貴族でなくとも――誇りが許さないのだろう。
「……アッシュだ」
こちらの狙い通り、彼は名乗ってくれた。

かしゃん

「ふん、ちゃんと名乗ったぞ。さぁ、さっきの質問に答えろ」
「あー、なんというか迷ったんだ。気付いたらここにいた」
半分本当で、半分嘘だ。しかしこれ以外言いようがない。やはりというかなんというか、その答えにアッシュは疑わしげな目つきでガイを見た。
「嘘だな」
そして、きっぱりガイの言葉を否定する。ああ、やはり彼に嘘をつくには、昔のように命をかけなければならいらしい。


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