「――っ!!!!!!」
悲鳴より早く身体が落下する。抜けるような青空が反転し、緑濃い地面が近づく。なにかまずいことになってローレライが次の世界にガイを放り出したことはわかったが、それにしたって死んだら元も子もないだろう!
(やばい、このままじゃ頭から叩きつけられる!)
さっきまで豆粒のようだった家々は、もう人間が歩いているところまで見えるようになった。
《まぁったく、これだからローレライは》
ありえない状況で明るい少年の声が聞こえ、ガイは面食らった。そこへ強力な風が一気に吹きつけ、ガイの身体をとりまく。
《一回だけって言ったけど、今回はノーカウントにしておくから安心しなよ》
「まさか、第三音素(サードフォニム) 『シルフ』なのか!?」
力ある名に反応して。昆虫の羽根を生やした小生意気そうな少年が具現した。一回転していたずらっぽく笑うと青年の問いへ答える。
《そそ。頑張れよ、ガルディオスの子。んじゃ》
風がさらに強さを増した。目も開けられなくなって、身体の重さがなくなる。
次に重力が戻ったとき、完全にシルフ(第三音素) の気配は無くなっていた。硬い地面。四つん這いという情けない着地だが、ひとまず窮地を乗り越えたことにガイは安堵する。が、次の苦難がガイを待っていた。
(ア、シュ……!?)
顔を上げると、目の前には思い切り眉を寄せたアッシュがいた。仁王立ちで。
(っの、やっぱり恨むぞローレライ!!!)
さっそくアッシュを発見できて嬉しいが、もし空から落ちてきたところを見られていたら不審者決定だ。
「こんなところではいつくばっているな。通行の邪魔だ」
どうしたものかと青い顔で考えていたガイにアッシュが辛辣な台詞をはなつ。ガイはここで相手に不信感を与えてはいけないと、いやもうすでに与えまくっているのだろうが、これ以上の事態悪化を防ぐためにどうしたらよいか考えが追いつかず、とっさに動くことができなかった。
「ほら」
あきれた声と共に、目の前にのばされた手。実は冷静に聞いていればアッシュの言葉はすべて、呆れが表立ってはいるが、心配してかけられたものだ。屋敷時代、それこそ年下の彼に、こんなふうによく叱られたり、怒られたりしたものだった。
「あ、す、すまない」
ようやく手に捕まって起き上がれと彼が示していると理解し、ガイも腕を上げ青年の手をつか――
「う゛」
カエルが潰れたような声を出した。
(あの、アッシュさん?)
お互いの手ががっちり交わることはなく。青年に頬を思い切り引っ張られたガイは、ふぇふぇと情けない声で彼の真意をはかる。
「ばかめ。目が覚めたか? さっさと行くぞ」
寝ぼけていると勘違いしたのか、行動がいちいちとろくて腹を立てたのかは不明だが、アッシュはガイの頬に赤い爪跡を残し颯爽と歩き出した。ガイがついてくることを微塵にも疑っていない態度だ。男は置いていかれまいと慌てて立ち上がり、青年にかけよる。
どうやらの世界で、我々は旧知の仲らしい。それまでのガイの経緯が不明なのが不安だが、まったく知らない相手であるということよりマシだ。さっきのようにアヤシイ行動を取ってもとりつくろえる。
青年は追いついた男を横目でちらりと見ただけで、あとはもくもくと歩いていた。そう、この世界のアッシュは青年だった。精悍に引き締まった横顔。身長もあれで止まらなかったようで、ずいぶんガイの目線に近くなった。白いシャツに黒のスラックスがシンプルながらに映える。
(ん? 俺も同じの着てるんだな。って、まてよ、確かこの服は見たことがある。王立大学の礼服だ!)
ようやく周囲を観察すると、同じような服装をした人間が何人か歩いている。私服の人間もいた。道は緑濃く、始めはただの街道だと思っていたが、王都 のはずれにあるキムラスカ・ランバルディア王立学問所の広大な敷地の一角だった。木々のあいだに目を凝らせば、いくつか白い研究棟が見うけられる。
(アッシュと俺は王立大学に一緒に通ってる、ってことか)
「今日は何があったっけ」
ガイはそれとなく今の状態の手がかりを引き出そうとアッシュに話しかけた。
「……」
アッシュの顔には「信じられない、大丈夫か」という文字がくっきりはっきりばっちり浮かんだ。まずい、何か変なことを聞いたのかと後悔したとき、青年が妙に優しい声で答えた。
「シェリダンから特別講師がくると、おまえ昨日の夜はこっちが恥ずかしくなるくらいはしゃいでただろ」
言葉はぶっきらぼうだが、確かに声音は優しい。優しいんだが、なんだかカワイソウなイキモノを相手にするような態度だった。
(わあ。俺、興奮し過ぎてとうとう色々イっちゃった人間に見られたっぽい)
「ハハハ、冗談だって」
微妙に乾いた笑いで取り繕うと、ガイはそういえばしっかり握っていた鞄を開き、中身を確認した。きちんとノートやプリント類が整頓されており、スケジュール帳まで入っていた。ガイは自分のこういうところはキッチリしている性格に、自分で自分に感謝する。
(ありがとう、この世界の今までいた俺! 俺使用人じゃなくて留学生だったんだなー。いきなり二十四歳になってたけど気にしないぞ!)
ND二〇二〇。この年では大学生でなく院生だ。手帳にはしょっぱい現実がしるされていた。
するとまた微妙に遠くへ旅立っているガイを心配してか、アッシュが話しかけてきた。
「そういえば、その首からさげた袋はなんだ?」
昨日までの自分はこのようなものをつけていなかったのだろう。なんと答えてよいか一瞬言葉をつまらせるが、ヘタなごまかしでは簡単に見破られる。それに、もしかしたら彼を元に戻す何かのきっかけになるかもしれない。ガイは正直に話した。
「譜石だよ。今は三つしかないけど、必ず七つ集めてみせる」
袋を開けば、アッシュが興味深そうに覗きこんできた。
「中に炎がある。珍しい譜石だな。……拾ったのか?」
「いや。大切なひとからの贈り物なんだ。頑張って自力で贈ってもらわなきゃいけないけどな」
「そうか」
突然、興味が失せたとでもいうように、アッシュはまた元の無表情に戻った。
(あれ、もしかして拗ねたのかな)
残念ながら譜石自体に反応はしなかったが、タイセツナヒトという単語に、微妙に眉が動いたのをガイは見逃さなかった。
(昔も、こうやってこいつの一挙一動、瞳の動きまで神経張り巡らせてたっけ)
自分の行動は、主にとってどうとらえられているのか。気に入られ、無防備な姿をさらしてもいいと判断されるためにはどんな使用人であればいいのか。
相手の油断を引き出すためのものだったのに、いつのまにかこちらが引きずり出されていた。無茶な態度をとられても、心の小さな機微に気付いてしまうようになった。小さな未来の王の心に触れてしまった。
あのときは認めたくなくて逃げてしまったが、今は違う。
「なあ、アッシュ」
目的地らしい建物につき、扉を開けようとしていた青年をガイは呼び止める。振り返った彼に続きを繋げようと口を開いたしたとき、
「アッシュ覚悟!」
物騒な叫びとともに、目の前の扉からルークが現われた。
くり出された拳を、アッシュは後ろに目がついているのかと疑うほど軽やかにさける。勢いを殺せず、ルークは前につんのめった。すかさず脚払いをかけられ、体勢を整える前にルークは見事に転倒する。頭だけ打たないよう、受身だけはとったのがさすがというべきか。
「ちくしょー、今回は負けかよ」
「たまたまガイが声をかけてきたからな。そのままだったらくらっていた」
悔しそうに呟くルークに、アッシュは手を差し伸べる。躊躇なく握り返し、ルークは立ち上がった。彼も白いシャツに黒のスラックスだったが、良くみれば意匠が違う。礼服ではなく私物のようだ。髪は長かったが、瞳は生き生きと輝いており、アッシュとの関係も良好そうだった。いきなり殴りかかってはいたが。
(アッシュとルークの仲がいいだなんて、俺はすごい世界に来てしまった)
額に手を当てガイは目眩を押さえた。
「ちぇー。余計なことすんなよな、ガイ。今度は俺にも協力しろよ!」
「特別に許可しよう」
「やりぃ!」
ルークの文句に応えたのはなぜかアッシュで、ルークもその点についてはまったく突っ込まない。どころか、こちらの可否は無視して話を進めてしまっている。なんとなく、この世界の自身の方向性が見えてきて、ガイは目頭が熱くなった。しかしながら、それでもいいやと思ってしまったあたり、どこまでいっても使用人根性がしみついている。
「確か今の時間授業とってただろ。こんなところで油売ってていいのか」
そういえばと、アッシュはルークに質問した。
「あ、なんか教授が今日来るシェリダンの人間と知り合いらしくて、色々話したいから休講になった。いいよなー、院生以上だけなんだろ、その人の話聞けるのって」
ガイはおや、と思った。とりあえず、この世界でアッシュとルークはどういう関係かははっきりしないが、外見は同じで年齢も一緒のはずだ。なのにアッシュは院生らしい。
「だったらお前も院までとんでくればいいだろう」
「えー、俺普通に勉強してたほうがいい」
どうやらアッシュだけ飛び級して院まできたようだ。しかもアッシュの言い分だと、ルークもそれなりの学力を持っているということになる。
(なんだろう、この形容しがたい感動は。お父さん嬉しいよ)
ルークの教育に携わった者として、込み上げてくるものがあるらしい。ガイは再び目頭が(以下略)。
「立ち話はそれぐらいにしようぜ。入り口にいちゃ迷惑だろ」
「ほう、自分のことを棚にあげているのは気にいらんが、一理ある。じゃあな、ルーク」
この世界のアッシュも、どうも一言多い。いや、いつものことだったか?
「ああ、またなー。あ、俺四限始まるまで図書館いるから、昼飯食うとき誘ってくれよ」
「善処する」
アッシュが鷹揚に返事をし、小走りに去って行くルークにガイは手を振った。姿が見えなくなり、二人は建物に入る。棟内の廊下を歩きながら、ガイは先ほどから思っていた疑問を口にした。
「昼食、ちゃんと約束してやってもよかったんじゃないか?」
「新しく作りたい物が増えた。どうしてもあの愚弟と食事がしたかったら、おまえがきちんと時間になったら俺を引っ張って行くことだな」
「……りょーかい」
二人が兄弟であろう事実に動揺しながらも、ガイはなんとか返答する。
そして正午、言葉の通り研究に没頭するアッシュを引きずり、ガイはルークのもとに向かった。

「まったく律儀なやつだな」
昼休み、本当にきっちり時間どおりにルークのもとへ連れていったガイに、アッシュは食堂の入り口で嘆息した。
「ごめん」
食堂は人であふれかえり、阿鼻叫喚の地獄絵図。もう少し時間をずらせばよかったと、ガイは後悔した。アッシュは本当に時間を気にしていなかったし、図書室に行ったらルークが嬉しそうに「飯行こうぜ!」とはしゃいでおり(本当に来てくれるとは思っていたらしい)、ガイもここの常識がないために、このような戦場へ突撃するはめとなってしまっていた。
また人が引いたあとで来ればいいが、それでは男がすたる。斜め上にずれた興奮で三人はなんとか昼食を購入し、どうせなら天気もいいし外で食べに行こうということになった。
大学だけでなく学問所全体の食堂は、味はそこそこいけるようで、公爵家の息子である二人も文句を言わず美味しそうに平らげていた。教育方針のためか、二人は家から通っておらず、ガイ同様併設された寄宿舎住まい等々、午前中のうちに、ガイは調べられるところは調べ尽くしてあった。食堂の混雑についてはともかく。
(しかも俺、アッシュと同室なんだよな。まーそうでもなきゃ、ガルディオス伯爵の息子とファブレ公爵の息子が知り合いなわけないだろうし)
ずちゅーと遠慮なく音を立てて紙パックの飲料を飲み干した双子を見ながら、ガイは感慨にふけっていた。シュールだ。
心地よい風が吹いて、三人の座る木陰が揺れる。さらさらと双子の髪が踊った。アッシュがまた怒っている。ルークは何をしたのだろう。ああ、デザートのスコーンを一つ勝手に食べたのか。ルークが悪びれもせず笑顔で謝って、あ、アッシュも笑った。しょうがないなって。すごい。
(平和だな……)
居心地がよすぎて、あんまりにも元の世界の面影がなくて、ここからアッシュを引き離すのかと思うと苦しい。こんなに楽しそうなのに。
アッシュはこの世界が居心地はいいが窮屈だと口を尖らせる。もっと上を目指したいと、追従してルークも夢を語らう。
それでもこの世界は、無数にある未来の一つだ。アクゼリュスは陥落して、奈落が口をあけている。他にも最近地震が多いと噂になっていた。確実に、滅びが近づいている世界。連れ出さなくては。心苦しくても、助けられるのは一人だけなのだ。
夕方、シェリダンから来たアストンが実験室で実演を交えつつ講義をしていた。一番大きな実験室を使ったにもかかわらす聴講者は一杯で、終了後アッシュは質問をしに行くために特攻していった。

先に寄宿舎に戻ったガイは、一人で夕食を食べ入浴を終えると部屋でくつろいでいた。机とベッドが二つとクロークだけの殺風景な部屋だ。もっとも、机の上だけは本やら器具やらごちゃごちゃと積みあがっており、譜石が入った布袋が異質だった。
ひとしきり部屋を見渡すと、ガイは寝台に寝転がり、白い天井を見つめる。自分も譜業についてあれこれアッシュ達と一緒に聞きに行きたかったが、なけなしの理性が止めた。
「ちわーす、アッシュいる?」
と、ノックもそこそこにルークが入室してきた。
「うわ、ちゃんと返事してから入ってこいよ」
「鍵くらいかけろよ。つーかアッシュは?」
ガイの苦情を流し、ルークは室内を見渡す。
「まだ帰ってきてない」
「じゃあ参考書貸してたやつ、とりにきたってっといてくれよ。明日小テストなんだ」
「わかった」
ガイは再び天井に視線を戻す。隣でがさがさ音がして、扉が閉まった。
「……」
参考書を自発的に取りにきて、テスト。
「ほんと、嘘みたいだ」
ガイは無意識に胸元に手をあてる。そこには何もないのに、自分の変なクセだよな、とガイは目を閉じる。次に目が覚めたのは消灯時間ギリギリにアッシュが帰ってきたときだった。

「まったく、だったらなんで一緒に聞きにいかなかったんだ」
文句をいいつつ、アッシュは律儀にガイの質問に答えていた。研究室で頭をつき合わせて、二人は昨日の疑問点を逐一確認し合っていた。
「あー、なんとなく? 具合でも悪かったのかな、普通だったら一にも二にも飛んでくんだけど」
「本当に悪かったみたいだな。頭が」
「……」
一方、アッシュの調子はすこぶるいいようだった。口の。
「そういえば」
「うん?」
質疑応答が一息ついたところで、アッシュはおもむろに口を開いた。ガイが休憩用にいれてきた茶を置き、座るのを待って続きを口にする。
「譜石、七個だったか? みんな同じ大きさなのか」
「え?」
「いや、なんでもない。参考書が一つなくなっていたんだが」
「あ。ルークが取りにきたの、言うの忘れてた」
「そういうことは早く言え」
「ごめん」
それ以上の追求はなく、カップが空になるとお互い元の研究に戻った。

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