「いつか必ず、栄光の使者が迎えにくる」
暁のオルビタ5
ND二〇一九 ルナリデーカン・イフリート三十八の日。 自室で支度を終えた少女は、壁にかけられた暦の数字に触れ、そっと息をもらした。 憂いをおびた瞳をまぶたが隠す。泣いてなどいない。震える指先を胸元できつく握りしめた。 「おはようティアー、準備できてるー?」 「今行くわ」 ノックとともに響いたアニスの呼びかけに、少女は凛としたいつもの表情に戻ると扉を開ける。 「さあ、行きましょう」 メシュティアリカが最後に戦いで譜歌を歌ってから、一年が過ぎた。 * * * 酷いなんてもんじゃない。 まだ視界が全方位で視えていたときの感覚の方がマシだった。認識しようとした瞬間無理矢理世界から引き剥がされ、飛ばされる。上下左右を判断する材料は景色だけ、けれども空か海か判別しようとしたときには、次に飛ばされている。 脳がガンガンいって呼吸が止まりそうになる。息がうまく吸えない、吐けない。叫んでいた口も、舌をかまないようきつく閉じた。それでも目だけは開けていて、自分という存在を他と区別しようと必死だった。 もう何度目の跳躍だろう。数えるのも馬鹿らしい。 王立大学院生だったアッシュを譜石に戻したとたんこれだ。譜石が、アッシュが次なる目的地へ導くとローレライは言っていたが、これではただの迷走、いや、暴走にすぎない。 (もしかして。これは俺に対するアッシュのイヤガラセなんじゃないか!?) 被害妄想はとどまるところを知らない。 思い返せばあんなことやこんなこと、そんなことも、今となっては過去の自分を殴り飛ばしたい。いや、しかし――。 あの頃の自分は何もわからず、わかりたくて、けれどもわかるのは恐ろしくて、耳と目をふさいで、わかりたいことしかわかろうとしなかった、一人の人間なのだと知った今こそ、過去でない今をようやく進んでいる。 (被害妄想というより、加害妄想だな) 世界に責められても、アッシュに責められても、俺は胸を張り続けなければならない。挫けた瞬間、現実に戻される。その咎を負えと、分断されたアッシュがそのままにされることを強いられる。 ローレライは何も言わなかったが、たぶん、そんな気がしてならなかった。 目を開けると、若葉色のカーテンに白い壁、そして天井があった。手の平が熱い。そう認知する前に脊髄反射で手を開く。ごとり、と譜石を入れたケースが落ちた。きっとこの熱で目が覚めたのだろう。火傷は、さいわい皮の手袋のおかげで免れた。と、物音に反応してか、蝶番の軋む音がした。恐らくこの家の者が扉を開いたに違いない。ガイは頭を傾ける。 少年と目が合った。 お互いの目と口が皿のように開いた。 「母さん! 母さんっ、お兄ちゃんが起きたよ!!」 「アッシュ!」 男の叫びは、扉を勢いよく閉められた音にかき消された。ほんの数秒足らずだったが、ガイは少年の姿が目に焼きついていた。赤い髪に碧の瞳。まだあどけなさが際立つ、ふくよかな頬。年のころは七、八歳か。まだ、ルーク・フォン・ファブレだった頃のアッシュだ。が、 (この部屋と言葉遣いは『ファブレ』から程遠いな……) どこからどう見ても、この部屋の造りは普通の家だった。それにアッシュはシュザンヌを「母上」と呼んでいた。 (この世界が、どんな世界かよく確かめないとな) ガイは起き上がると、カーテンを開く。外の風景もまったくもって普通の村の一角だった。 「入ってもいいかしら?」 「あ、は、はい!」 寝台から降りようとしたとき、扉の向こうから女性の声がした。靴も履かず立ち上がりながらガイが慌てて返答すると、先ほどの少年を伴って女性が入室してきた。 赤い髪に碧の瞳。髪は長く、緑のドレスによく映える。シュザンヌに面差しが似てはいたが、意思の強そうな瞳ときりりと引き締まった目鼻筋がまったくの別人だ。年も三十前後で、まさに女盛りといった感じだ。その割には服装が庶民くさくなく、動作も優雅で、ガイはだんだん自分の見立てに自信がなくなってきた。彼女達は、一体誰なのだろう。 「もう、起き上がって大丈夫なのですか」 「はい、おかげさまで」 心配ご無用と微笑むと、女性は安心したのか笑顔になる。女性の後ろに隠れるようにして先程の少年がこちらを見ているが、彼はまだ警戒を解いていないようだ。 「ええと、ところで、ここはどこでしょうか?」 「お話をする前に、まずは靴をお履きになって。今、使用人に何か飲み物と食べ物を持ってこさせますから」 女性は苦笑すると、ガイはとたんに真っ赤になった。やはり、靴をはいてから返事をすればよかったと。 「ドーン、ウスースに胃に優しい物を作ってもらうように頼んできてくれるかしら?」 「うん!」 靴を履いているとそんな親子の会話が聞こえてきた。ドーンが少年の名で、ウスースが使用人だろう。 女性はテーブルの椅子を引き出し腰かけると、反対側の席をガイに勧めてきた。いくぶん女性と天板が離れているのは気にしないでおく。 「俺はガイラルディアといいます」 ガイは席につくと、まず名前を名乗った。 「私はシネラリア。今部屋を出ていったのは息子のドーンです」 「シネラリアさん……花の名前ですか、素敵ですね。助けてくださってありがとうございました。と言っても、俺、まったく当時の情況を覚えてないんですが」 「息子が貴方を見つけたので、あの子のほうから色々聞けると思います。そのことは息子が戻ってきたらお話しましょう。それに、貴方も花の名前でしてよ」 「あ、そうですね」 悪戯っぽく笑われて、ガイは居心地に悪そうに肩を揺らした。意識してやったわけではないが、キザな言葉を言ってしまったことに気付いた。初対面の、しかも人妻に何を言っているんだ。 「セントレア商会の名をお聞きになったことはありますか?」 突然変ったシネラリアの話に、ガイは申し訳なく思った。気を使わせてしまったようだ。 「確か、キムラスカ三大商の一つですよね」 「ご存知のようで嬉しいです。私の夫、タベリウスはセントレア商会の筆頭です。私の療養のために、一月前から一家で主人の実家のあった村に住んでいるんです」 「そう、だったんですか」 納得がいった。それなら彼女の服装や所作、使用人がいることも頷ける。 「母さん、言ってきたよ」 「ありがとう、ドーン」 先ほど伝言に走っていた少年が帰ってきた。母親の膝の上に登ると、顎を机の上に置き、ガイをじぃーっと見上げる。シネラリアが広く座ったのはこのためだったのか。 「やあ。君が俺を見つけてくれたんだって? ありがとう」 背をかがめて目線を少し低くするとガイは言った。しかし少年が発した言葉は、ガイの予想もつかいないものだった。 「アッシュって、なに? 人の名前?」 男の笑顔が強張った。返事の変りに、喉がひゅうと鳴った。だが少年は気にした様子もなく、男を見ている。 「これ。ドーン、いきなり不躾でしょう」 母親の言葉にびくりと瞳を震わせた少年を見て、ガイは我に帰った。 「あ、いえ、彼を叱らないでください。……アッシュは、俺が探している人物の名前です」 ガイはもう一度少年に問う。 「俺はガイラルディア。ガイでいいよ。ドーン君、どうしてその名を知ってるんだい?」 「ガイが、家の庭に落ちてきて、びっくりして生きてるかつついたら、言った」 まいった。ローレライのやつ、また俺を空からこの世界に放ったのか。外傷のないところをみると、もしかしたら今回もシルフが助けてくれたのかもしれない。 「他に、何か変ったことは?」 ぶんぶんと首を振る少年からガイは母親へ目線を上げる。 「今日は何年何月何日ですか?」 「ND二〇一九 ルナリデーカン・ローレライ四十一の日です。貴方をここへ運んで、一晩経ちました」 ND二〇一九! 自分が七層へ飛んでから、九ヶ月しか経っていない。いや、そもそもこの世界は元の世界なのか。アッシュに、俺は見捨てられてしまったのか。――だがもしそうだったら、ドーンは他人の空似ということになる。シネラリアの子だというなら、似るのも当然だ。 (そもそも、ドーンがアッシュなのは年齢的におかしい。せいぜいまだ腹の中だろう) ガイは自分がほっとしていうことに驚いた。アッシュを探していることは本気だ。 しかし。 ガイは質問を続ける。 「預言は、どうなっていますか」 「おかしなことをおっしゃるのね。預言はもう詠まれないと、教団と両国が取り決めを交わしましたのよ? もしかして、ガイラルディアさん、記憶が混乱しているんですか。どうして家の庭にいたのかもわからないなんて」 「あ……、そう、ですね」 一瞬否定しようとして、ガイは肯定した。そっちのほうが、何かと都合がいい。ここは、元の世界か、元の世界に限りなく近い世界だ。 「大詠師はトリトハイムですか? アルビオールはノームデーカンに宇宙まで行っていますか」 「そうだよ! アルビオール!!」 シネラリアが答えるより先に、ドーンが机に乗り出しガイに詰め寄った。 「ガイはアルビオールから落ちてきたの!?」 「ドーン、まだそんなことを言ってるの。アルビオールといっても、普通の人は乗れないし、第一そんな高さから落ちてきたら死んでしまうでしょう? ガイラルディアさんはどこも怪我してません」 「だから、本当に空から落ちてきたんだってば!」 ドーンは興奮して手足をばたつかせた。シネラリアは、当然だが息子の言葉を信じていないのだろう。ガイも本当にそうなのか突っ込まれてはこまるため、記憶が混乱しているという設定を通すことにした。 「俺、名前以外よく覚えてなくて。もしご迷惑でなければ、しばらく置いていただけませんか? もちろんタダとは言いません。家事とか庭の手入れとか、譜業も修理できます」 「そんな、顔を上げてください。もともと主人と相談していて、そのつもりでしたからご安心を。使用人はウスースで充分ですから、気にせずご逗留くださいな」 「ありがとございます」 ガイは一層頭をさげる。 「ただし」 シネラリアの弾むような声に、ガイは思わず面を上げた。 「ドーンの遊び相手になってくださいね」 結局、使用人はいつまでたっても使用人だった。 ひっつめ頭で年配の女性が粥と白湯を持って現われたのは、すぐ後だった。たぶん、彼女が使用人のウスースだろう。表情に乏しく、ガイのことをどう思っているのかはわからなかった。シネラリアは「さっそくお願いね」と食事中のガイを置いて行ってしまった。ドーンはウスースが一緒に持ってきたお菓子を食べている。一応、こちらに食事をさせようとはしてくれるみたいだ。正直腹が減っていたのでありがたい。 お互い無言で食べ終わると、行儀良く手を合わせ今日の恵みに感謝する。 「ガイ、それ、ガイがずっと持ってて離さなかった。床に置いてていいの?」 「え――あっ」 ドーンが指差した先には、譜石のケースが転がっていた。この熱で起きたのに、すっかり存在を忘れていた。 「俺が取ってやるよ」 寝たきりだったガイを気遣ったのか、ガイが静止する間もなくドーンは椅子から跳ねるように寝台元へ走る。 そして、それはおこった。 ケースに少年の指が触れた瞬間、まばゆい光が部屋を染めた。 「うわぁあああああっ」 「ド―ン!?」 ガイが急いでケースを取り上げようと近づく。途中で視界がきかなくなり、手探りでようやくドーンとケースを掴んだときには、ドーンは気を失っていた。 「一体何事です!?」 息子の悲鳴に息せきって現われたのはシネラリアだった。 「シネラリアさん! すいません、俺の持ってた音素灯にドーン君が触ってしまって」 今にも掴みかからんばかりの勢いの母親に、ガイは悲鳴に近い声で理由を話す。 「音素灯?」 「これです。かなり強い光源なんですが、俺がしっかりドーン君を見てなかったせいです。本当に申し訳ありません」 ドーンを抱きかかえながら、音素灯と偽った譜石のケースを差し出す。だがケースには気にも止めず、シネラリアはドーンの頬に手を当て、もう片方の手で呼吸を確かめると、息子を寝台に寝かせるよう言った。 驚いて気絶してしまっただけだということがわかると、シネラリアは目じりに滲んだ涙を拭う。 「ごめんなさいね。ドーンのことだから、勝手に触ってしまったのでしょう」 「いえ、そんな。俺の監督不届きです」 ガイが再び謝ろうとしたとき、か細い呻きが遮った。 「う、ん……」 「ドーン!」 少年はすぐに目をさました。母親が抱きしめると、情況がつかめず目を白黒させる。 「あれ、俺ガイにケースを取ってやろうと思ってたのに」 「まったく、人の持ち物を勝手に触っちゃだめでしょう」 「ごめんなさい」 ドーンは母親とガイに謝った。シネラリアは立ち上がるとガイの持っているケースを見る。 「その音素灯は、貴方が唯一持っていたものでした。寝かせるときも離そうとしなくて、結局そのままにしておいたんです。よほど大切なものなのでしょう?」 「はい」 「ドーンはしばらく寝かせておいてください。何かあったらすぐに呼んでくださいね。ウスースか行きますから。私がずっとついていてあげたいのは山々なんですが、衛生上とめられているんです」 「わかりました」 シネラリアは名残惜しそうに部屋を出た。彼女の病状はわからなかったし、話さなかったので聞こうとは思わない。本当は、ずっと一緒にいたいだろうに。 「ガイ、ごめんなさい」 もう一度謝る少年に、そっちこそ驚いたろうとガイも謝った。椅子を引き、寝台の横に座る。譜石のケースは机の上に置いたのだが、ドーンの視線が離れなかったので持ってきた。 「きれいだね」 「ああ、俺はこれと同じ譜石を探していろんな世界を旅をしているんだ。空から落ちてきたことは、本当だよ」 「えっ!?」 ドーンが思わず跳ね起きる。ガイは神妙な顔つきで「これ、秘密な。男同士の約束だぞ」と人差し指で少年の口を止めた。ドーンは黙ってこくこくと首を縦に振る。 「今回はちょっと世界を渡るのに失敗してさ、でも君の家族みたいな優しい人達に助けてもらって助かったよ」 「ねぇねぇ、じゃあさ、ガイが旅してきた世界のこと聞かせてよ」 きらきらと瞳を輝かせて、ドーンがせがむ。 「うーん、どうしようかな〜」 「ガイのケチ!」 「はは、冗談だって。そうだな、まずは何から話そうか」 ドーンは寝転がると、ガイの話に耳を済ませた。 譜石はガイをアッシュへと導く。その譜石が反応したということは、ドーンはアッシュだ。ドーンを心配していたシネラリアの表情を思い出して、ガイは胸が締め付けられるようだった。 いつの間にかドーンが眠ってしまったので、ガイはただ椅子に座っていた。考えても堂々巡りで、時々こぼれるドーンの寝言が救いだった。 「だ…ぃ…ま」 何を言っているかわからないが、嬉しそうに手を伸ばしている。 「失礼いたします」 そんなこんなで日も暮れたころ、ウスースが伝言を持ってやってきた。 「旦那様が、ガイラルディア様と夕食をとりたいそうです」 「そうか、俺もお礼を言いたかったことだし、すぐ行くよ」 「ドーン様は私がみておりますので。食堂は右の廊下のつき辺りです」 「わかった、ありがとう」 言われた通りの道順を行くと、おいしそうな匂いが近くなってきた。扉をノックすると、どうぞとシネラリアの声がした。 「失礼します」 「初めまして、ガイアラルディアさん」 扉を開けると、シネラリアと金髪の男性が立っていた。 「タベリウス・セントレアです」 「助けていただいてありがとうございました」 セントレア商会の筆頭は、三十代前半の、まだ若い人物だった。お互い握手をし、シネラリアのすすめで席につく。 「仕事で出ていたもので、昼間はすぐにこられなくてすいませんでした」 「いえ、こちらこそお世話になりっぱなしで、なんとお礼を申し上げたらいいか」 人助けに理由はいらないから気にするなと、タベリウスは笑う。人好きしそうな爽やかな笑顔に、嘘をついていることにガイは罪悪感を覚えた。ドーンには嘘はついていないが、本当のことも言っていない。 いずれは、真実が明るみにでるというのに。 この優しい夫婦から、自分は子供を奪いにきたのだ。 「ガイさんは、昨日の朝ドーンが庭の散歩しているとき見つけたんです。主人が仕事へ行く前でしたので、主人に運んでもらいました」 シネラリアがワインを注ぎながら言う。ウスースがドーンをみているので、彼女が積極的に給仕をしていた。 「あ、これはすいません」 「いいんです、おもてなしをするのは楽しいんですよ」 病気だというわりには、シネラリアは元気そうに立ち回っている。療養にきて一ヶ月だというし、もしかしたらもうだいぶ元気になっているのかもしれない。 「シネラリアから聞いたのですが、ガイラルディアさんは、記憶喪失なのですか?」 「あ、いえ、そこまで深刻じゃないんです。ちょっと助けてもらう前の記憶がないだけで、」 「充分深刻ですよ。キムラスカに懇意の医者がおります。王宮にも顔を出しているほどの腕前ですから、よければご紹介しますよ。ただ、彼も忙しいのですぐにというわけにはいきませんが」 「ありがとうございます」 一瞬どう断ろうかと考えを巡らせたが、明日にでもというわけではなさそうだ。ガイはそっと胸を撫で下ろす。 それまではうちにいるといいと、タベリウスは笑った。本当に、いい人達だ。ガイの直接知っている商人はアスターなので、商人にも色んな人間がいるのだなと、改めて関心する。いや、アスターもなにかとお世話になっているので、悪い人間ではないとわかるのだが、どうしてもこの爽やかな商人と比べると悪役顔に見えてしまう。 「ドーンもなかなかこの村の子供達と馴染めなくてね。ずっとつまらなそうにしていたので、ガイラルディアさんがいてくれると助かりますよ」 「そ、そうですか」 今までの話しぶりからすると、まだ当分彼らはこの村にとどまるということだ。王都に戻られる前に決着をつけなければならない。 夕食の席は当たり障りのない会話で終わった。 湯を借りて最初の部屋に戻ったときには、ドーンは部屋にはおらず、ガイはすぐに眠りについた。 この村の異変に気付いたのは、次の日だった。 |