のオルビタ6


暖かい手だった。
優しく、ゆっくりと頭を撫でる手は、とても安心できた。不思議と感じるのは温度だけで、質量はない。
頬を流れた熱い雫が乾いた頃、ようやくガイは我に返った。
「あ……」
「落ち着いた?」
目の前には、心配そうにこちらを覗きこんでいる碧の瞳。
「なんだ、ザインか」
「ちょっと! せっかく慰めてやってたのにっ。今舌打ちしただろ舌打ち!」
「あー、なんのこと?」
ガイはわざとらしく視線をさ迷わせた。
頭、腕、脚、胴体、今ははっきりと認識できる。どこでもあって、どこにもない世界。ローレライ。
アッシュであって、アッシュでない、ローレライでありルークである第七音素の世界。
「アッシュは、どうしてタベリウスの願いを叶えてやったんだろう」
小さな声でも、ここはよく通る。ガイは何の気ない独り言のつもりだったが、ザインは律儀に答えた。
「たまたま条件が重なっただけだ。アッシュの見ようとした夢と、な」
「……」
別に答えが欲しかったわけではない。ただ、夢ではない現実の世界の人間を傷つけたという罪悪感が言葉となっただけだ。
「ま、気に病むなよ。これはアッシュの言葉でもある」
「なら、いい加減ちゃらんぽらんな賢者じゃなくて、アッシュ本人の口から聞きたいんだけどな。出来るだろう。一度、俺に毒のことを忠告してくれた」
「あれはシネラリアだ。俺じゃない。アッシュの力を借りたんだろう」
「……そうなのか?」
疑わしげな視線を送るガイに、ザインは拗ねた。
「おまえ、ホント俺相手だと態度悪いよな! アッシュに筒抜けだぞ。わかってんのか」
ガイは言い返さなかった。かわりに笑いだしたので、ザインは面くらった。
からかったり、たきつけたり、本当は全部心配しているからだと知っている。ずっと落ち込んでなんて、いられないようにしてくれている。アッシュのそんな気持ちが心苦しくて、でも嬉しい。
「あー、駄目だなんか俺、泣けるようになってから涙もろくなっちまったのかな。すぐ涙腺の腺が全開になっちまう」
「いいんじゃないか、別に」
笑いすぎて目元が潤む青年を見ながら、賢者は初めてマグログミを食べた人間のような顔をして答えた。おそらくものすごく気味悪がっているのだろうが、ガイは頓着せず次の話題に移る。
「譜石はあと二つ、か」
そんなガイの言動にいちいち突っ込むのも疲れたのか、ザインは話を合わせた。
「ああ、思ったより順調に進んでいる。当初の予想では、もう少し難航すると思ったんだがな」
「ルークが邪魔をするから、か?」
「ガイ、知って」
ザインの碧の瞳が見開かれた。確かに、ガイならばいつか気付くと思っていたが、あまりにも簡単に口にされて、次の言葉が見つからない。
「やっぱりな」
落ち着いた声だったが、堅い表情は少なからず衝撃を受けたことを表していた。つまり、
「おま、カマかけたのか!?」
「いやー、意外と簡単にひっかっかって、びっくりしたよ」
「っく、」
「何度も無茶な跳躍をしたのも、そのせいだろ」
「……そうだ」
「全部話してくれるか?」
賢者の瞳を見据え、ガイが問う。ザインは重いため息を一つつき、口を開いた。
「さっきは現実世界だったし、やっとまいたんだけどな。次は最初っから捕まっている。頃合だろう。むしろ直接会って聞いてこい」
「――え」
論より証拠。意味不明に笑われた意趣返しもかねて、ザインは次の世界にガイを落とした。



「入ってくるときはノックぐらいして欲しいものですね」
眼鏡を中指で押し上げ、無残に床に這いつくばっているこちらを見もせずジェイドは言った。唐突に出現した青年にも関わらず、死霊使いは冷静そのもので、書類にペンを走らせている。
「一足違いでしたね。アッシュはアニスの所へ行きました。こんなところでぐずぐずせず、とっととお行きなさい」
「ジェ、イド?」
ジェイドの執務室のソファに落ちたガイが、部屋の主の言葉に目を白黒させる。話がわからない。
「ああ、でもこれ聞いておかないと駄目なんでしたっけね。面倒ですからさっさと答えて出ていってください。『ガイ、あなたはどうしてアッシュを探すのですか。』」
最後がものすごい棒読みだった。
ジェイドはガイの戸惑いなど一向に気にせず話す。別にどちらの味方というわけでもないんですけれどもね、レプリカの産みの親としては云々。
「ええと、ジェイド? ここはアッシュの夢の世界でいいんだよな」
「そうです」
そんなことどうでもいいからさっさと質問に答えろと、赤い瞳が一瞬だけ青年を見る。
「早く答えなさい。でないと鍵が開かず一生このままですよ」
書類の記入がひと通り終わったのだろうか、ジェイドは紙の束をまとめると、トントンと硬質な音を二回響かせ端をそろえて机に置いた。それきり動かず、言葉も発しない。
「俺は、ただ」
ようやくためらいがちに口を開いたガイの言葉が、ジェイドの耳に入るより執務室の床にこぼれる。死霊使いは面白くなさそうに執務机に腰掛けて出来上がった文面を眺めていた。聞けよおっさん。
だが、そうは思っても次の言葉が出てこなかった。
俺はただ、
ただ? ただなんだろう。
ローレライに――アッシュに譜石を集めてほしいと頼まれたから? 違う、例え頼まれていなくても、
「俺がしたいと思った事を素直にしたいんだ」
「ほう?」
初めてジェイドの表情が動いた。
「理由がないのが一番やっかいです」
「……」
そうだ、確かに今の答えでは、明確な理由としては失格だろう。だが、それ以外に言葉はみつからない。ジェイドから見れば、幼稚な一人よがりだ。
「人間はあれこれ理由をつけたがる。自分の望みに正当性を持たせるために。ゆえに、純粋に理由のない衝動が一番強い。誰も、止める術をもたない」
「ジェイド……」
うつむきかけた顔が、ジェイドの言葉に動きを止められる。
「行きなさい。運命は変えられません、ですが意味はある」
「運命?」
ガイの問いに答えることはなく、ガイは光に飲み込まれた。


「はーい、お次はアニスちゃんの番でーす」
「うぁあああああああああああああああああああ」
目の前に現われた少女に、ガイは奇声と共に全力でバックステップした。最後に壁にぶつかって、振動で隣の窓がびりりと震える。
「もー、相変わらずなんだから」
腕を組んで盛大なため息をするアニスに、ガイは背中をさすりながら近づく。ここは、見覚えがある。ダアトのイオンの部屋だ。
「まったく〜。ガイがぐずぐずしてるから、アッシュはもう行っちゃったよ」
「……」
アニスはガイの反応などおかまいなしに話をすすめる。アニスと、アッシュが一緒だったとは、一体どんな会話をしていたのだろうか。想像がかけらもつかない。
「とゆーわけで問題です☆」
どうやらアッシュを追いかけるには、ジェイド同様アニスの問いにも答えなければならないらしい。
「ここに被験者イオン様とイオン様とシンクとフローリアンがいます。目の前に立って、一人ずつ名前を読んであげてください」
アニスの言葉にガイは改めて部屋を見回す。ソファには簡素な白い服を着た少年達が座っていた。
「いつの間に」
「ほらほら、早く答えて答えて」
アニスが手をひっぱってガイをガ壁際から導師の執務机の前に連れ出す。四人の少年達は一様に無言だったが、表情や雰囲気、ちょっとした仕草などは一人一人違っていた。
「フローリアン」
ガイはまず無邪気に笑っている少年に声をかけた。
「わーい、アニスゥ、ぼく見つかっちゃった!」
フローリアンはぱっと立ち上がるとアニスにかけよる。
「シンク」
次に、フローリアンの隣に座る不機嫌そうな年の名を口にする。
「まったく、なんでボクが」
シンクはさっさと扉の外へ出て行った。
「イオン」
その様子を対面から微笑ましそうに見ていた少年に言う。
「はい、ガイ。お久しぶりですね」
イオンはそのまま座ってたが、どこから取り出したのか、お茶を飲みはじめた。
「被験者イオン導師」
最後にイオンの隣に無表情で座る少年を呼ぶ。
「賢明な判断だ。僕をおまえは知らないからな。残った人間が、つまり被験者となる」
導師は視線を少し向けただけで、言うなりかききえた。ソファには、少しの皺――誰かがいたという痕跡だけが残る。
「はい、良くできました」
アニスの言葉に、フローリアンが手を叩く。
「アッシュはティアの所へ行ったよ」
「ガイ、またね!」
手を振る少女と少年が遠く縮小すると、世界が暗転した。


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